加藤節江「まつこと綺麗やなう室の百合十個」(『風が吹く』)・・
加藤節江句集『風が吹く』(明日の花舎/発売・邑書林)、跋文は柳堀悦子「母の結婚」、それには、
(前略)私の実母・加藤節江九十四歳が我が家に来て、今年で八年目になる。(中略)
そんな母は、二年前から俳句を作り始めた。自分のことを人に伝える楽しさをお覚え、五七五で語り始めたのだ。少女時代の美濃での生活を俳句にする母は、すこぶる楽しそうな顔をする。(中略)
学友は置屋の娘半夏生 節江
その友達の家。遊びに行ったことあるの?と聞くと、当たり前よ親友だもの。学校帰りにね。ちょっと寄るのよ。普通の家よ。と笑って答える母。
そんなやりとりをしながら過ごす母との時間が貴重で楽しくてしかたない。
「里」に投句するようになってから、母は日に日に元気になり、表情も明るくなってきた。
時には人生の苦しい体験も一句にする母。
年の暮祖父は女と出奔す 節江
自分の句を読みながらケラケラ笑い、話し出す。
しょうがないジジイなのよ。仕事なんかしないくせに全財産を持って遊郭の女の所へ出ていっちゃんたんだから。
その上、その女の人と近くに料亭作って商売まで始めるのよ。(中略)
*
女は強くて働き者が一番。男なんてダメよ。当てにしてはダメ。
それが母の持論である。
とあり、著者「あとがき」には、
私の父は、土岐郡土岐津町(現・土岐市土岐津町)の紅窯陶苑という美濃焼の窯元の四代目で、虎沢静雄と言いました。母はすゑで、兄昭雄、弟英雄と三人兄弟の真ん中の長女として育ちました。
父静雄は家業の窯焼はせずに、友芳という俳号で狂俳「三好俳壇」の捌きをしていました。
「狂俳」とは、江戸時代後期に俳諧をもとにして岐阜で生まれ、美濃地方を中心に普及した、最も短い定型詩です。(中略)狂俳は、与えられたお題に対して、五・七または七・五の十二音で面白くユーモアに富んだ句を作ります。
と大野町立中小学校コミュニティ・スクールだより「人来鳥」にあります。(中略)
いまは、「里」皆さんと一緒に俳句を作るのが生きがいです。
元気百倍、百歳まで頑張りますので、よろしくお願い申し上げます。
とあった。ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておこう。
紅と白の芍薬土岐の家 節江
兄 虎沢昭雄は
網持つて野うさぎ追へり美濃の秋
売り先は多治見料亭小鳥くる
亡き弟 虎沢英雄へ
夜咄やおむすびころりんすつとんと
仕事せぬ父は俳諧美濃は冬
七草粥すずなすずしろちと硬い
吸入器吸つて吐いてと春惜しむ
あつぱれと自分を褒めて五月来る
加藤節江(かとう・せつえ) 昭和4年、岐阜県生まれ。
ところで、同送された「里」5月号(里俳句会)には、叶裕「『人民短歌』と昭和二十一年」の寄稿があり、新興俳句弾圧事件の記述ののちに、
この特高警察や思想警察の過剰なまでの取り締まりは戦後GHQの人権指令により廃止されるまで続き、累計逮捕者数十万名、うち送検七五、六八一名、虐殺された者九十名、拷問・虐待による獄死一、六〇〇名余、実刑五、一六二名という甚大な被害を出したが、現在に至るまで日本政府はこの件に関して謝罪も賠償にも応じていない。『参議院第一八〇回国会、新件番号一、〇三五件名「治安維持法犠牲者に対する国家賠償法の制定に関する請願」より抜粋)(中略)かの戦争で日本は累計二三〇万人とも言われる戦死者を出し、その是非は別として英霊として祀られているが、治安維持法による被害者はこの中にも入る事を許されず、現在に至るまで闇に葬られている。
実家の工場では緩衝材として古新聞を使用しているが、昭和期、トラックに積まれた製品から共産党機関紙「赤旗」が覗いていた事を咎められ、ぼくの父は公安から任意同行を求められた事が昨日の事のように思い出される。
と記されていた。
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
土岐善麿『夏草』(昭和二一年刊)より
撮影・芽夢野うのき「うきつりぼくわたしは同じくれないに」↑

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