岩切雅人「陽は真上人間日に日に縮むかな」(『烽燧』)・・
岩切雅人第三句集『烽燧(ほうすい)』(鉱脈社・2005年刊)、著者「あとがき」に、
(前略)本句集には、第二句集『青銅譚』以降の作品…つまり、職場の転任により長崎県対馬に渡り、沖縄県・鹿児島県を経て今年の春に漸く帰郷し、それを待って嫁いでいった娘を見送るまでの、単身生活五年間の作品二五〇句を収めた。配列は、概ね作句順になっている。(中略)
この対馬の地勢は、今も本質的には変わらないまま続いており、朝鮮半島まで五十キロメートル弱しかないことから、気象条件に恵まれれば、肉眼でも隣国がはっきり見えるし、事実何度となくその幸運に恵まれ、壱岐をも望むことができたが、九州本土は見えない。(中略)
当初、それらの景観や対馬ならではの釣りを楽しんだが、途中から鬱が顔を出すようになった。ただ、この地には、すべての官公署の出先機関が揃っており、それらの長のうち、単身赴任者で構成する「烽燧の会」という親睦団体があったが、その会を通じて親しくなったメンバーに、随分と精神面をほぐして貰った。
「烽燧」とは、防人時代に制度化された通信制度で、烽火と狼煙を指す。(中略)
琉球…沖縄は今も琉球である。多少の誤解を覚悟で言えば、ウチナ―(沖縄人)とナイチャー(内地人)をはっきり区別し、サンシン(琉球三味線)を奏で、琉歌(琉球民謡)や琉球舞踊を大切にしながら、明治以降、日本の占領政策によりウチナ―口(琉球言語)の復活を図っている。(中略)
鬱王…(中略)鹿児島にいた一年間、気分転換のために一人で遊びに出るということが一度もなかった。常に頭の中に仕事があり、また、仕事を考えていない時間を持つことに罪悪感を感じ、気付いたときには、兜子を奪った鬱王が眼前に両手を広げて立ちはだかり、不眠・悪夢・悪寒・発熱感に苛まれ続け、週末は実際に熱発して寝込むことが多くなった。やがて精神安定剤と点滴なしには過ごせなくなり、何度となく山の神殿の来鹿を求め、その度に救われた。しかし、もう限界‥‥と感じたときに帰郷が認められた。帰郷後一月余りを経て、鬱は徐々に影を潜めている。
とあった。帯文には「島では、樹は痩せ/人はつよく生きている/対馬から琉球へ、島の日常をつないで今を問う著者の第3句集」とある。ともあれ、集中よりいくつかの句を挙げておこう。
対馬烈風しかしどの木も歩けという 雅人
死にたくば生きよと山のけむりかな
炎天や性好色にして気弱
飛びおえて再び飛ばぬ翼である
仁志、結婚。
喧嘩天下の双子のごとき夫婦たれ
かりゆしシャツのシーサー二日酔いである
死にたくてまだ生きたくて冬の花
幻聴のごとく桜の咲く夜かな
死後に来る野分の音を聞いており
兜子よこれが鬱王なるか吾にも来し
死ぬ価値はあるか雷雨の遠ざかる
水澄んで首のない顔映りけり
白雷の寂しき朝は抱きあえり
竹の秋にわとりの首血を吹きぬ
長女・理恵子結婚
嫁ぐ影を見送る影の桜かな
岩切雅人(いわきり・まさと) 1947年、宮崎県生まれ。
★閑話休題・・是枝けんじ「草茂る農夫病むてふ噂なり」(「青銅通信」第42号)・・
岩切雅人つながりで「青銅通信」(青銅の会)、第42号(令和5年探梅号)の特集は「誌上句集『是枝けんじ句集』」。表紙裏(表2)に「信条」と題して、句の目指すべき方向が五項目記されている。「モットー」は、「発想は大胆に、表現はしなやかに!」とあった。以下に会員作品(☆印の付いた岩切雅人推奨区句)を挙げておこう。
自粛の鬱や窓越しの夕桜 有馬 進
父の忌の夏を起点のものがたり 岩切雅人
囀りに心の張り手春の雷 岡元 裕
敬老日廉(かど)を倒さぬ心掛け 甲斐今男
夏籠(なつごもり)のうつらうつらと聞く落語 川添澄子
窓越し親子面会百日紅 清山秋雄
はや葉鳴り神それぞれに旅立つか 是枝けんじ
咲き終へてよりの命や椿の実 塩月道子
寝椅子から病む母と見る遠花火 竹下正美
歯磨はスマートにせむ巣立ち鳥 野瀬志郎
水恋鳥(あかしょうびん)鳴いて少年滝滑り 早川たから
廃村になりし産土木の実降る 原 紀子
星ひとつ残して落つる花火かな 原田マキ子
駆け下りる兜太の足音秋の山 疋田恵美子
赦されて老いゆく身にも桜かな 牧野尚幸
橋桁の川面にうつる薄暑かな 松浦奈保子
冷蔵庫開くれば妻の声出たる 松坂博士
親に孝ならずも真摯盆の月 山内弘子
浜木綿や名谷は落人住む里ぞ 山内 学
晴れ晴れと中天にあり百日紅 渡邊通子
芽夢野うのき「ふいに不安正しき画像の菫ほど」↑
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