野沢省吾「素うどんの前で安心してしまう」(「触光」90号)・・


 「触光」90号(川柳触光舎)、主要記事は「第16回 高田寄生木賞発表」。高田寄生木賞に橋倉久美子「教科書に川柳を?」、入選賞に花島照子「なかはられいこ論/接続するわたしー背川柳の私性を巡って」、島田駱舟「入選至上主義という病」、西脇祥貴「記号句の意義について」、森砂季「『いけフリ』論・現代川柳読みのアイディア」、特別参加作品に月波与生「止揚としての川柳」。その月波余生は、


 はじめに/川柳はしばしば「伝統川柳」と「現代川柳」という区分によって語られてきた。前者は定型、穿ち、おかしみ、軽み、共感性を基盤とし、後者は個の内面、言語意識、批評性へと比重を移してきた、と一般に説明される。しかし今日、両者は激しく対立しているというよりも、互いにほとんど関心を持たないまま並立しているように見える。伝統川柳の場では、現代川柳は「難解なもの」「自分たちとは別種の川柳」として距離を置かれがちであり、現代川柳の場では、伝統川柳はすでに更新の可能性を使い果たした形式であるかのように扱われる。(中略)

 無関心をを越えるとは、評価基準を混合することではない。差異を意識化し、その差異のあいだで書くことである。伝統川柳が現代川柳を読むとき、その難解さを排除するのではなく、なぜ難解に見えるのかを問う。現代川柳が伝統川柳を読むとき、その持続力の根拠を軽視せずに考える。読むことそのものが運動になる。止揚は理念ではなく態度である。相手を排除しないこと、しかし、同化もしないこと。分類の安定に身を置かず、緊張の内部で書き続けること。そのとき一句は、伝統か現代化という枠を超え。現在形の言葉として立ち上がる。(中略)

 ここで言う「読む」とは、単に作品を鑑賞することではない。異なる評価軸の内側に身を置き、自分の基準を相対化する行為である。伝統川柳の書き手が現代川柳の一句と正面から向き合うとき、「わからない」という感覚はそのまま問いになる。何が遮断しているにおか。自分の読解はどこで止まるのか。その問いを言語化しようとする運動そのものが、批評の始まりである。現代川柳の書き手が伝統川柳の安定した達成に触れるとき、その平明さを自明と見なすのではなく、なぜその形式が長く機能し続けてきたのかを問う。(中略) 

 川柳は古い形式である。しかし五七五という器は、いまだに思考を圧縮し、感覚を際立たせる力を持っている。問題は形式そのものではなく、形式をどう用いるかである。止揚としての川柳は、形式を保存しつつ、その内部の力学を更新する。無関心を自覚し、それを超える往復の運動を選び取ること。それが、これからの川柳に求められる方法である。


 とあった。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう。


  カラカラと乾いた音を出す海馬       竹尾佳代子

  うっとりと上目遣いのウオシュレット     青砥和子

  戦争もサクラも最速の善前線         滋野さち

  行く春とキャベツ芯まで薄みどり       吉見恵子

  インコース高めにジョーク突き刺さる     浪越靖政

  創はキズ傷がなくちゃと樹木希林      尾形せいじ

  一斉に溜息マンションの室外機        船水 葉 

  弾丸除けの村に飛び込む核のごみ       三浦幸司

  原油高なのに五月蠅い爆撃機          白 花

  ルアーには引っかからないマイナンバー    中山恵子

  胸に手を当ててごらんよ騙したね      千葉かほる

  春日和樹氷の森も痩せて見え       小保内たびと

  燃えつきた頃に答えがでてきます       中村誠子

  あいしてるなんていったかもしれぬ     佐々木久枝

  我が家を通り過ぎました救急車        鳴海賢治

  こくみんに背負わす土産は徐々に着く     木暮健一

  戦争にルールがあるという誤解        濱山哲也

  鉛筆も母も小さくなってゆく        柳谷たかお

  心ならずもアンモナイトとして残る      吉田州花

  魂が居留守をつかう春ですね         木本朱夏

  ちちんぷいちちんぷいぷいあるか明日     野沢省吾

 


       撮影・中西ひろ美「一日の半分黙る梅雨晴れ間」↑

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