中里夏彦「原子爆弾製造所(はつでんしょ)/ラララ/僕等(ぼくら)ハ/未来(みらい)ノ子供(こども)」(『空を映す』より)・・


 九里順子著『空を映す』(鬣の会)、「あとがき」に、


 (前略)「ながめわびそれとはなしにものぞ思ふ雲のはたての夕暮の空」(『新古今和歌集』左衛門督通光)空は心を映すが、心もまた空を映す。外界と心が浸透し合って、その人の見る空が、生きる時間がつくられていくのではないだろうか。

 そのような心を通して見えてきたいろいろが、この本に収めたエッセイである。「Ⅰ」「Ⅱ」は、所属している俳句同人誌「鬣」に、「Ⅲ」は地元紙『福井新聞』の「日曜エセー 時の風」に連載したものを、「Ⅳ」は、尊敬する知人で日本近世史研究者の菊池勇夫氏が刊行されている個人誌『北の歴史から」、及び勤務していた宮城女子大学日本文学科の研究紀要『日本文学ノート』に掲載したものを収録した。読んでくださる方々の心に触れるものがあったなら、とても嬉しい。


 とあった。第「Ⅳ」章「戦後の時間」のなかの「『戊辰戦争一五〇年』そして『三・一一』の後」に、愚生は山口県(長州)出身だから…、そのわずかな部分だが、挙げて記しておきたい。


 二〇一八年、私は仙台で暮していたが、仙台、会津若松、福島の地で「戊辰一五〇年」が銘打たれた。山口県で「維新一五〇年」が、故安倍首相(当時)も出席して祝賀ムードだったのとは対照的だった。因みに、福井県では「幕末・明治一五〇年」だったと記憶する。近代国家に蓋されていた、一括りにはできない各藩を流れていた時間が顔を出すのである。ここは東北だと実感した。戊辰戦争の勝者と敗者は乖離しており、近代国家の発展の中で無いことにされてきた敗者の時間の存在が、敢然と打ち出される。無かったことにされる扱いは、今も続いている。(中略)

 東日本大震災から十二年が過ぎ、二〇ニ三年八月に、被災者たちの手記を集めた『福島からの手紙——十二年後の原発災害』(関礼子編 新泉社)が刊行された。十七通の「手紙」は、淡々とした朴訥な語りが心に響く。(中略)

 編者の関礼子が「編者あとがき――十二年間の福島から」で、「この国は、大きな犠牲を人びとにもたらしてなお、原発に頼り続けなくてはならないのだろうか。/こうした問いを発するのは、二〇二ニ年六月十七日に最高裁判決が、国にはフクシマ原発事故の責任はないと判断したからだ。(中略)安全対策をしてもしなくても事故は防げなかったというのでは、あまりにも無責任である。」と述べているが、この半血には唖然とした。更に、最高裁は、当時の東京電力経営陣の最高幹部の責任についても無罪判決を出したが、それはないだろうと思った。この国は、もはや三権分立も疑わしい。(中略)

 そのような声を世に問い続ける一人が、俳句同人誌「鬣」のメンバーである中里夏彦である。福島県双葉町の百年以上を経た由緒ある家に生れ育ち暮してした中里は、退避を余儀なくされ、帰還を事実上断念して、現在は郡山に居住している。(中略)『無帽の帰還』の「あとがき」で、中里は、「ただ言えることは、原子炉から直線で5kmに位置する私の家には再び事故前のような時間が永遠に訪れない、というあまりに無慈悲な事実に思い至ると、思考停止になってしまうのが常である」と述べている。被災した一人一人の手に余る原発事故の「無慈悲な事実」を中里は詠む。

  天空(てんくう)

   仰(あお)ぎ見(み)

              髪(かみ)

  溢(あふ)れあふれ        (「平成二三年三月一二日」)

  

 (中略)『無帽の帰還』から五年後の『夢見る甍』では、「私は生まれ育ち、将来も自らの人生の拠点になる筈であった家や地域を永遠に喪失した。」(「後書き あるいは『避難所から見える風景(八)』」という深い断念のもとに、故郷を、国を詠んでいる。

  日晒(ひざら)しの

  国旗(こくき)

  群(む)れ立(た)

  波(なみ)の上(うへ)         (「海の伽藍」)


  ふるさとは

  

  草(くさ)に耄(ほう)けし

  草(くさ)の沖(おき)


 九里順子(くのり・じゅんこ) 1962年、福井県大野市生まれ。



     撮影・鈴木純一「何故あたしひとりなんだろう蓮浮き葉」↑            

                   66   スタン・ゲッツ 没(19271991

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