正岡子規「足たたば北インヂャのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを」(『正岡子規の百首』)・・


              1959(昭和34)年1月刊↑
          土屋文明編自筆稿『竹の里歌』より厳選。

 坪内稔典著『正岡子規の百首』(ふらんす堂)、その解説「三年間の歌人」に、


 (前略)多分、近代の短歌は個の表現とうか、個人の思いや感情を表現する形式なのだ。別の言い方をすれば一人称の表現、すなわち、作者が中心の部文芸である。だから短歌を詠む場合、たっぷりと自分だけの世界へひたる必要がある。

 それに対して、俳句は作者を無視するというか、個人の内面の表現などにさあすいてこだわらない。五七五がいかにすてきかを競う文芸なのだ。(中略)もっとも、現代の俳人には個の表現を目指す人が多い。つまり短歌的俳人が多いが、それは多分へぼ筋に入っているというのいがボクの観測だ。(中略)

 一人の作者がこの二つの詩形を使いこなすのはかなりむつかしい。例外的な存在が正岡子規であった。

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺                (明治二八年)

  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる  (明治三三年)(中略)

 つまり、彼が「竹の里人」という歌人であることを表現活動の中心にしたのは明治三一年から三三年の三年間であった。「竹の里人」は三年間の歌人だった。


 とある。巻頭の部分を以下に挙げる。


 世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る


 『万葉集』の大伴旅人の歌「あなみにく賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る」を踏まえている。「賢しらをす」は賢そうにすること。旅人の歌では逆に酒を飲まない人が賢しらだが、子規の歌では逆に飲む人が賢しら。ほとんど酒の飲めなかった子規の主張は、柿をはじめとする果物が大好きだった子規としては当然だろう。明治三〇年の作だが、主張の強いやや狂歌的なこんな歌から子規らしい短歌が始まった。『竹乃里歌』(昭和三一年)にはこの歌までに五〇四首がある。


とあった。ともあれ、以下に短歌のみになるが、本書より、いくつかを挙げておこう。


 世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは 

 我庵(いお)に人集まりて歌詠めば鉢の菫に日は傾きぬ 

 四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり

 真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり  

 にひ年の朝日さしけるガラス窓のガラス透影(すきかげ)紙鳶上(たこあが)る見ゆ

 朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも

 ビードロの駕(かご)をつくりて雪つもる白銀の野を行かんとぞ思ふ 

 詩人去れば歌人坐にあり歌人去れば俳人来(きた)り永き日暮れぬ

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

 佐保姫に別れかなしも来ん春にふたたび逢はんわれならなくに

 いちはつの花咲きいでて我目(わがめ)には今年ばかりの春行かんとす

 ほととぎす今年は聞かずけだしくも窓のガラスの隔てつるかも

 藤の歌山吹のうた歌又歌歌よみ人に我なりにけり


 坪内稔典(つぼうち・ねんてん) 1944年、佐田岬半島(現在の愛媛県伊方町)生まれ。



       撮影・中西ひろ美「冬鳥に残す南天の実いくつ」↑

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