杉本青三郎「飛んでいないと初蝶と見做さない」(「俳句四季」3月号より)・・


「俳句四季」三月号(東京四季出版)、浅川芳直「俳句ランドスケープ」の中に、


 井口時男評論集『近代俳句の初志』(コールサック社)は力強い評論集だ。碧梧桐も虚子も子規の文学観をリアリズムに矮小化したが、子規の志は「非空非実の大文学にあり、それを継承したのは、メタファーを使いこなした昭和初期の新興俳句だ、という骨子である。

 細かい異論はある。井口は、虚子の「大自然と一様になった時に写生句が出来る」(「写生俳句雑帖」)という言葉を、西田幾多郎の「主客合一」の借り物で、些末主義的な写生の物足りなさを自然随順の形而上学と神秘主義によって粉飾したものと批判する(本書Ⅱー七)。ただし西田自身は、「主客合一」を客観的対象の本質は、実験・操作といった主体の能動的な関与を通してのみ知りうるのだ、という実証主義的学問論の文脈で論じ、その神秘化を戒めてもいる(行為的直観」)。虚子の自然への没入も、俳句は授かり物だが、受け身だけではできない、、という制作論として、師系では受容されてきたように思う。 (中略)

 悼尾に置かれた「『限界芸術』と名句たち――俳句とポピュリズム」では、俳句の価値がどこで成立するか、するどい分析が加えられる。井口によると、俳句はアマが作りアマが享受する「限界芸術」である。それゆえ、作品の価値の最終半者は、指導的観点を気にする「小心のプロ」ではなく、大衆の目に他ならない。(中略)さらに、そうした俳句の大衆性を逆手にとって、句の意味を初めから一切、読者に委ねたのが坪内稔典だと論を進める。

 しかし、俳句の価値を決める「大衆」はほとんど俳句を作る人に限定され、外部の大衆が不在なのも実態である。


 とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの作品を挙げておこう。


  大寒の欅巨樹日のなかにあり        小澤 實

  岸に寄る雛突かれて流れけり       津川絵理子

  客人の座に金縷梅の壺を置く        生駒大祐 

  ブリキとプリキュアが遭ふ春休み      北大路翼

  労働の路傍の薔薇をどうしやう       中矢 温

  鏡の外へ鬼火のきみたちはいつてしまつた  青木瑞季

  書け勝て死ね甦れ書け死ね書け生きろ勝て  垂水文弥

  水仙にとって咲くとは裂けることわたしはわたしの本意が怖い

                         帷子つらね 

  今日からは父の死後なり霜柱        秋山 夢

  六林男忌の傷口しゃべらないよう塞ぐ   杉本青三郎

  年新たヒーローのゐる世界線       伊藤左知子

  空中へ飛び出すぶらんこの重さ      紅紫あやめ

  我もまた一つの闇か胡桃の実         森 潮 

  朧夜の浮沈の影の青みけり         鈴木太郎

  真っ白に充たされるまで青き踏む      花谷 清

  風死して草木は死をよそほへり      中島悠美子

  若葉風大河にみちの生れけり       間中惠美子

  傷舐めて母は全能桃の花          茨木和生

  春めくや硝子の国は零を生む        中澤美佳



       撮影・中西ひろ美「如月や昨日マラソン今日静か」↑

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