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木戸葉三「死ねばひときて舌のながさを確かめる」(「不虚(ふこ)」20号より)・・

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 「不虚」20号(編集・発行 森山光章)、箴言集、アフォリズムのような「更なる〔終わり〕へ」には、      *   「梅原猛」氏は、〔詩人は自殺してはいけない〕と語られる。  わたしも、そう思う。   〔存在そのもの〕の腐敗 (・・) ー頽落に抗して (・・・・・・)、 〔終わり〕の闇 (・) に、痙攣しなければならない(・・・・・・・・・・・)。〔終わり〕の闇 (・) の血の (・・) 〔供犠〕がわたしを呼んでいる。〔哄笑〕のみが、ある。  とある。他のエッセイに、前田俊範「素敵な公共施設は、素敵な避難場所」、森山光章「骨となりてもふりむかず―ー木戸葉三句集『幺象眉學』を読む」があり、その結びには、  木戸葉三氏は、〔彼方〕を、〔浄土〕を願求 (・・) している。そこには、〔義〕だけがある。現代詩人も現代俳人も、名聞名利 (・・・・) を生きているだけである。砕滅の刀 (・・・・) を、研 (と) がなければならない。   〔骨となりてもふりむかず〕―—。                 〔諾(ダ―)!〕。   ともあれ、以下に、いくつかの作品を引いておこう。   語りえぬ   原 (アルン) ー日本の   誼   出撃する                森山光章     大学にうかりし曾 (ひ) 孫の便りには櫻の蕾 (つぼみ) 大きくなりしと  佐藤ミヨ子   交差点生死流転の波のごとし        木戸葉三           芽夢野うのき「潰されて怒りもせずに野の葡萄」↑

山本純子「くちびるがぷるんきのこが木にぷるん」(『オノマトペ』)・・

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  山本純子句集『オノマトペ』(象の森書房)、背に「100句の句集」とある。帯文は坪内稔典、それには、     秋風を飼うだぶだぶのシャツだから    新旧の友来て冬瓜がとろん  「だぶだぶ」が秋風とシャツを、「とろん」が友と冬瓜を結びつけている。  いた、親和的に同一化している、というべきか。  H賞受賞のの現代のこの詩人は、オノマトペを介して  俳句の言葉の生成に立ちあう気鋭の俳人でもある。 とある。また、著者「あとがき」には、   2020年は特別な年だった。20年あまり参加していた俳句グループ「船団の会」(坪内稔典氏代表、以下ねんてん先生)が、春に散在した。 (中略) 私は少年詩集を作ることに心を傾けた。どういう場で俳句を作っていくかという課題は、しばらくわきへ置いておくことにした。  そこへ、ねんてん先生からブログ「窓と窓」へ投句するよう、お誘いをいただいた。2020年度、ひと月に一度、五句を投句した。投句には、選句とも言える、ねんてん先生のコメントがついた。それは、思いがけなく新鮮な体験だった。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておきたい。    手帳まっしろ打ち寄せられて水母         純子    布袋草つつく背びれをもつ午後は   ハイヒール蜥蜴にUターンされた   多言語のメニューめくって鍋野菜   トマト冷え切るかガブリか海見るか   掃除機のコードがしゅるんナスころん   風抜けるテントぱちんとオセロです   うんていはどっちもゴールいわし雲   セーターが背にひっかかる羽化したか  山本純子(やまもと・じゅんこ) 1957年、石川県生まれ。  ★閑話休題・・中田美子「『白生地』の異なる織目冬来る」(「Υ ユプシロンNO,7)・・  「Υ ユプシロン」(発行 中田美子)は、仲田陽子・中田美子・岡田由季・小林かんな、四名の俳句同人誌、以下に一句ずつのみになるが挙げておきたい。    なんとなく定員のある焚火かな       仲田陽子    白椿落下の夢を見続ける          中田美子    二箇所からおーいと呼ばれ花筵       岡田由季    足一本どうしても浮く茄子の馬      小林かんな         撮影・中西ひろ美「懐に熟柿かくして敵を待つ」↑

川崎果連「戦争に視聴率ありソーダ水」(第61回現代俳句全国大会」・朝日新聞社賞より)・・

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坪内稔典氏講演「俳句の未来」↑            帯解(おびとけ)の里・水輪書屋↑   一昨日、11月16日(土)は、第61回現代俳句全国大会(於:ホテル日航奈良)であった。愚生は、久しぶりに坪内稔典の記念講演「俳句の未来」を聞き、懇親会にも参加した。翌日17日は、地元の堀本吟・堺谷真人が企画した「筑紫磐井さんを囲む会」(於:水輪書屋)に参加した(約20名ほど)。  水輪書屋は、奈良市郊外に建てられた築250年の古民家。歌人の北夙川不可止(きたしゅくがわ・ふかし)が自宅兼アートとカルチャーの発信拠点として、今春イベントスペースとして始動、「まちかど博物館」としてもスタートしたという。  大会の表彰は、第24回現代俳句大賞に寺井谷子、第79回現代俳句協会賞にマブソン青眼句集『妖精女王マブの洞窟』(本阿弥書店)、第25回現代俳句評論賞に田辺みのる「楸邨の季語『蟬』ー加藤楸邨の『生や死や有や無や蟬が充満す』の句を中心とした考察』」、第25回現代俳句協会年度作品賞に村田珠子「霧の海」、第41回兜太現代俳句新人賞に楠本奇蹄「触るる眼」。  ともあれ、以下に第61回現代俳句大会(於:日航ホテル奈良)優秀作品の中から以下にいくつか紹介をしておこう。  幾万の鶏を枯野に埋めて忘れる       山戸則江(現代俳句全国大会賞)   納屋開けるたびに倒れる補虫網       吉田成子(   〃     )  白桃の浮力戦争終らない         山﨑加津子(現代俳句協会会長賞)   蝉の樹から少年剥がれてくる夕べ     小林万年青(関西現代俳句協会会長賞)  恐竜の名前が長い夏休み         栗原かつ代(毎日新聞社賞)   一つずつ踏切鳴らし帰省せり        松井 弓(読売新聞社賞)  春爛漫すべてのドアが開きます       満田三椒(俳句のまちあらかわ賞)   木々に雪バッハの後の無音       マブソン青眼   本閉じる誤訳のような梅雨の月       村田珠子  こゑにあつて玻璃にないもの冴返る     楠本奇蹄     撮影・鈴木純一「空也忌のよじれた輪ゴムぴょんと跳ね」↑

藺草慶子「水渡り来し一蝶や冬隣」(『雪日』)・・

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 藺草慶子第5句集『雪日』(ふらんす堂)、その「あとがき」に、 (前略) 本句集では、Ⅱ章に岩手県沢内での作品をまとめた。この章の句の制作年は前句集の作品を作った時期とも重なる。豪雪地帯である岩手県西和賀町沢内を初めて訪れたのは二十代の夏、碧祥寺に残されたこの地の民俗的な資料に降れ、その風土に激しく心を揺さぶられた。その後、斎藤夏風先生が紹介してくださったのが現地の俳人小林輝子さんだった。輝子さんのご主人は木地師。こけし工房の斜向かいには湯田またぎの頭領 (しかり) が住んでいた。失われようとしている風土の姿を、少しでも書き残せれば嬉しい。 (中略)  私も大自然の循環の中に生きる全てのものへの祈りの心をもって作句していきたい。  とあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。    狐火の映りし鏡持ち歩く            慶子    花粉なほこぼるる菊を焚きにけり   雪五尺こけし挽く灯をともしけり   えぐ来たな何もねえども雪ばしだ         雪ばしだ=雪でも見てくれ   青立ちの稲穂に山雨しぶきけり   廻し呑むコップの生き血熊腑分   まだ粒のふれあはずして青葡萄   金魚田と云ふはさざめきやまぬ水   この町に橋の記憶や震災忌   母の杖父の吸ひ飲み冬夕焼   挽歌みな生者のために海へ雪   閉まらざる木戸そのままに春隣   なきがらの目尻の涙明易し      黒田杏子先生の急逝を悼む   かく急ぎたまひし今年の花も見ず      母は   大病のあとの長生き草の花     藺草慶子(いぐさ・けいこ) 1959年、東京都生まれ。      撮影・芽夢野うのき「激しきは冬の花火のとおき音かも」↑

秦夕美「また雪の闇へくり出す言葉かな」(第4次「豈」通巻67号より)・・

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  第4次「ー俳句空間ー『豈』」67号(豈の会・税込1100円)、メインは第9回「 攝津幸彦記念賞 」。加えて特集Ⅰとして「 攝津幸彦百句 」(筑紫磐井選と同人よるエッセイ)、と特集Ⅱ「 秦夕美追悼 」。「秦夕美追悼」では、外部の執筆者・ 寺田敬子 「秦先生の思い出」、 依光陽子 「雲をのむ」、 遠山陽子 「秦夕美さんの想い出」、加えて、昨年亡くなった 宮入聖 の再録で「禁忌の共同―—『巫朱華』そして『胎夢』」(秦夕美著「掌編小説集『胎夢』栞)。深謝!!!  さらに、書評については、外部寄稿で、 清眞人 「詩の自死なのか?―—冨岡和秀の詩的言語集『霧の本質』をめぐって」、 松下カロ 「風のゆくえ 髙橋比呂子句集『風果』を読む」を執筆いただいた。深謝!!!  第9回「攝津幸彦記念賞」は、今年も正賞が無かったものの力作揃いであった。準賞に選ばれたのは 太代祐一「その名前」 (1996年、鎌倉市生まれ))。選考委員は、大井恒行・川崎果連・城貴代美・筑紫磐井。以下に佳作4名の方々の作品とともに各一句を挙げておこう。    よくしゃべる管だ切り取ってしまおう      太代祐一(準賞)    日晒しの耳塚が聴く昼花火           斎藤秀雄(佳作)    にんげんはてふ混沌にして銀河         各務麗至( 〃)    さざ波とさざ波であふ春の耳          林ひとみ( 〃)      パスポートは期限切れ   雨具に   雨蛙は   棲んで                   尾内甲太郎( 〃)    みづいろやつひに立たざる夢の肉        攝津幸彦    十六夜に夫 (つま) を身籠りゐたるなり     秦 夕美   以下には、本号より「豈」新同人になられた方の一人一句を挙げておきたい。興味を持たれた方は、発売・日本プリメックス社でアマゾンでは扱っている。    片陰や半顔鬼となりにけり           各務麗至   母音ゆたかバスアナウンスのさみだるる     中嶋憲武    ふらここの「とびます」といふ枷のやう     墨海 游    ほんたうは狐なの押しくらまんぢゆう      村山恭子    初明りジュゴン鳴き出しさうな海       伊藤左知子  ちなみに、第10回攝津幸彦記念賞も選考委員未定ながら募集する。令和7年5月末日締切で、未発

久保田哲子「民族の追はれしのちの大花野」(『翠陰』)・・

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 久保田哲子第三句集『翠陰(すいいん)』(朔出版)、帯文は堀切克洋、それには、    還る裸ざる手紙のやうに冬鷗  一枚の便箋のような冬鷗が翔び立つ。それは、遠き日にすでに失われてしまった、読み返したいと切に願っても叶わぬ手紙だ。古りゆくものに囲まれる生活のなかで、作者の追想する過去は、降り積もりはじめる初雪のように新しい。  とある。また、著「あとがき」には、  『 翠陰』は、『白鳥来』『青韻』につづく第三句集です。小学四年の担任であった三好文夫先生(小説家)との出会いによって、俳句の道へと導かれたように思います。( 中略)  北海道の大自然に生まれ育ち、「明るく強く美しく」を目指した句づくりを心がけてきましたが、ぢれほど作品に反映できたのだろうか、そんな自問を今も繰り返しています。しかしながら、ここ数年続く体調不良のなかで、第三句集を上梓できたことは、幸せであり、有難いことと思っています。  とあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておきたい。    川へ石投げては語りあたたかし          哲子    トッロトの馬上の少女朝桜   水平線いたどりは花懸けつらね   翅音のみ聞えて蛍袋かな   棒鱈にひすがら海の鳴る日かな   限界集落押入れに亀鳴きにけり   蕎麦の花柩にみちをひらきけり   寺田京子の鷹がどこにもゐぬ暑さ   寒満月われも一樹として立てり   雪解野の下は渦潮かもしれぬ   未完の絵のこし出征揚雲雀   秋の虹歩き出さむと軍靴あり   わたなかに祭あるべし鮭帰る   朱鷺色の馬のはじしも冬に入る   ペンギンをバケツで量る冬うらら   初時雨その日は馬に会ひしのみ   雪原のはじくひかりを狐とも  久保田哲子(くぼた・てつこ) 1948年、北海道愛別町生まれ。            撮影・鈴木純一「爪に爪なくて戀しき爪の跡」↑

嵯峨直樹「透明なペットボトルは半透明のふくろに朝のひかりを張って」(『美志』23号)・・

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「美志」23号(編集・発行 さいかち真、嵯峨直樹)、詩作品に江田浩司「菊の翁 江田興三に」、さいかち真「夏」、「的」。論考に江田浩司「角川『短歌』特集/『シュルレアリスムと短歌』を読んで思うこと。」、「岡井隆」と坂野信彦『深層短歌宣言』のと、など。」、さいかち真「黒木美千代歌集『草の譜』について」、西巻真「文語旧仮名の魅力ー現実と浪漫についてー」。その西巻真の論中に、 (前略) 沈船の窓よりのぼる泡よりもはかなきことを今こそ言はめ    山田富士郎      つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれをり  小池 光  変なことを言うように聞こえるけれど、文語が伝統的な写実の感覚につながるなんて、少なくとも私は信じていない。むしろ写実に接続するために文語を使っているのだとしたら、あっさりした新仮名でなりけりを使った方が趣があるし、現代の感覚をただ写したいのなら、新仮名の口語の方に利があると思う。 (中略) 現代のわれわれから見れば、文語はどう見ても「浪漫 (ロマン )の領域に属するものだ、ということはこれら戦後の短歌を見れば納得していただけると思う。  情感というのはすぐ消える儚いものだ。それをなるべく長くとどめておきたい。ハ行音が多くて読みにくい文語は、感情を載せるのではなく、一瞬でも長く感情を留めておきたいという作者の願望のために最適な表記なのだとい思う。私は文語旧仮名遣いの歌をそのように感受してきたし、戦後歌人たちも情感に満ちた秀歌を多く生み出してきた。 (中略)   現実が「見るに耐えない」と、おそらく人は「浪漫」というか非現実世界に逃避する。わたしは別に浪漫的であろうとしたことはなく、単にそうするしかなかったのだ。 (中略)  最後に、多くの歌人が無意識に言ってしまう批評用語についても指摘しておこう。たとえばいい作品に出会うと「リアリティ」があるという言い方はよく見受けられるけど、「浪漫性」があるという批評用語はまず見かけない。 (中略)  私たち現代人は「突拍子もない幻想」にむしろ慣れているので、「この漢字の使い方は世界感がひろがる」「この用法はロマン性がある」「この言い方に心を揺さぶられる」など、感情や幻想の効果をきちんと受け止める批評があってしかるべきだと思う。いまの短歌批評がつまらないとすれば、それは「現実/浪漫」という対立軸が批評には