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久保純夫「土偶には性のあるなしラ・フランス」(「儒艮」51号より)・・

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 「儒艮」51号(儒艮の会)、エッセイに押木文孝「OSSIEコラム46 立春の卵」、津髙里永子「村越化石の百句(20)」、金山桜子「春から夏へ」、土井英一「四季の苑漫遊(36)私の9・11顛末記」など。久保純夫「俳句の現在4/原知子という異界―ー小さきももへのまなざしー」、「俳句の現在5/受容と均衡ー岡田耕治句集『父に』評」。ここでは土井英一「私の9・11顛末記」から、部分dさが、紹介したい。  9・11。2001年9月11日、世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込んだ。 (中略) その日、私はアメリカのラスベガスにいた。前日、ロサンゼルス経由でラスベガス入りした私は、時差ぼけのためよく眠れないままうとうとと夜を過ごした。あまり早く起きすぎて物音をたてては隣の客に迷惑だろうと思ってTVをつけるのをぐっとこらえていたが、午前6時前には我慢しきれず、TVのスイッチを入れた。 (中略)   と、目に飛び込んできたのはツインタワーであった。世界貿易センターに違いない。その一方から、黒煙が上がっていた。 (中略)  時おり、画面を通してという大きな音が聴こえて来た。ビルの向こう側で何かが落下しているらしい。そのたびに地響きを立てた。 (中略)   高層階から人が飛び降りています。あれは地表にたたきつけられる音です。 (中略)   所在ないまま、部屋に戻ってTVをつけると実況中継は続いていた。テロは2機だけではなかった。3機目はワシントンDCにあるペンタゴン(国防省)に突っ込み、4機目はキャピタル・ヒル(国会)かホワイトハウスを目指していたのを、乗客が阻止、航路を変えてペンシルベニア州のどこか野っぱらに墜落した。組織的テロの全貌が明らかになってきた。超大国アメリカに対する未曽有の挑戦であった。 (中略)   ホテル滞在4日目、漸くにして事態が動き始めた。サンノゼにあるソフトウエア研究所(私たちは「ラボ」と略称していた)から一通のファクスが届いた。明日、早朝のバスでラスベガスを発ち、バス→鉄道→バスを乗り継いでサンノゼのバスターミナルまで来るように、とのことであった。 (中略)  そのうち、今回の事件に巻き込まれたうちの会社の連中の動静が伝わってきた。別の事業部の役員を含む3人は事件当時フロリダにいて、航空管制が解けた勅語に数人乗りの小型機をチャーターし、ニューヨーク...

浜田到「はなひらより櫻散りはじむ人つねに微笑より帰化、さいはてに向き」(『浜田到作品集』)・・

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  『浜田到作品集』(青磁社)、解説の大井学「浜田到―—生涯と作品」には、    医師にして詩人また歌人であった浜田到 (いたる) の作品は、突然訪れた彼の死ののち、歌友・詩友によってそれぞれ一冊ずつの歌集・詩集としてまとめられた。鹿児島で創作を続けた彼の人となりは、中央の歌壇・詩壇にはあまり知られることななかったし、鹿児島においても限られた友人たちとの交流を除いては、特に目立ったものではなかった。むしろ地元の勤務医として静かな生活を送っていたと言ってもいいだろう。到の作品が世に広く知られるようになったのは彼の死後になったが、それは逆に作品の力だけで読者を獲得していったということでもある。 (中略)      1,生涯  浜田到は、一九一八(大正七)年六月十九日、アメリカ合衆国カルフォルニア州ロスアンゼルス市モニタにおいて、父謙吉・母クニの長男として生まれた。 (中略)  到が中井に認められるようになったのは、角川短歌賞への応募がきっかけだった。「星の鋲」は角川賞への応募作品を「依頼作品」の扱いとして掲載されたものだった。 (中略)   一九六八(昭和四十三)年四月三十日。到の死は唐突に訪れた。往診先で酒を振る舞われ、帰途、自転車で転倒。深さ一メートルの側溝に落ち、頭の骨を折った。翌朝、新聞配達の少年が儚くなった到を発見したという。 (中略)  到の作品は、短歌・詩いずれにおいても彼が傾倒したライナー・マリア・リルケ(一八七五~一九二六)の影響が見られる。薔薇や少女というモチーフについてもそれを指摘することができるだろうし、何より短歌のエピグラムにリルケの詩句を引用するなど、詩想の連続性を提示している。今後、到=遺太郎の詩が広く読まれるに応じて、詳細に研究されるだろうことを心待ちにしている。   とあった。ともあれ、本書中より、いくつかの作品を挙げておきたい。  山のみが〈沈黙〉のあらはなる形もち明るくなるまで溶けつづけゐる    到   石女 (うまずめ) のおまへの頬のつめたさにほほそそけつつ一生愛 (ひとよを) しまむ  あきづけば回帰 (かへ) りくるべきもののけに吾妻よひしと懸 (かか) りし虹か  横隊に貧しき学徒ら列なせば日本の空が劇的に灼け  冬天の青さうつれる土の上 (へ) を征かざるわれも踏みて別るる   空こそ詩にしあればこよ...

石田柊馬「水にされそうでますます狂う」(『LPの森/道化師からの伝言 石田柊馬作品集』より)・・ 

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   小池正博編『LPの森/道化師からの伝言 石田柊馬作品集』(書肆侃侃房)、帯文は瀬戸夏子、それには、   どうしようもなくかっこいいのに、そんなことを言ったら嫌われてしまいそうだ。  含羞のダンディズムに導かれてわたしたちは現代川柳の真髄を知ることになる。   とあり、また、惹句には、   川柳性を徹底的に突き詰め、「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」などの作品でも知られる現代川柳の先駆者・石田柊馬(1941~2023)。晩年の作品と代表的な評論を収載した作品集。   とあった。そして、小池正博「あとがき」には、   石田柊馬没後二年、ようやく作品集を世に送ることができる。  柊馬には『ポテトサラダ』『セㇾクッション柳人・石田柊馬集』があるが、本書の第一部にはこの二冊以後の作品を収めた。 (中略)  第二部では「道化師からの伝言」「冨二考」の長編評論を中心に、彼の評論の代表的なものを収録した。柊馬の残した膨大な文章のほんの一部だが、彼の川柳論を展望することができると思う。(中略)  二〇〇〇年『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)が刊行された。川柳ゼロ年代のはじまりである。  発刊記念イベント「川柳ジャンクション」が開催。第一部の鼎談「川柳の立っている場所」は荻原裕幸。藤原龍一郎、堀本吟の三者による、このような川柳をめぐるシンポジウムそのもが当時は珍しく、他ジャンルの表現者が川柳をどうとうらえているかを含めて川柳人に刺激を与えた。 (中略)  石田柊馬の存在は本書に収録されたよりも、もっとスケールが大きい。樋口由紀子は『川柳総合事典』第一巻・人物編(雄山閣)で「彼が居なければ川柳の革新は後退したであろう」と書いている。まことに石田柊馬がいなければ「現代川柳」はいまとは別のものになっていたことだろう。  と記している。愚生は、『現代川柳の精鋭たち』には、思い出がある。北宋社社主(渡辺誠にして「豈」同人名・森猿彦)から、何か企画はないかと相談され、現代川柳には、俳句、短歌にあるアンソロジーがない。是非、出版すべきだと言い、その人選その他は、「豈」同人だった樋口由紀子を推薦した。そして、樋口由紀子はそれによく応えた。セレクション川柳のときは、現代詩文庫、現代俳句文庫のようなスタイルで、現代川柳文庫のようなものを出してくれる出版社はないか、と相談され、邑書林を紹介した...

金子兜太「他界の春を与太な兜太よ九八」(第183回「現俳協・青年部勉強会/現代俳句の伴走者・大井恒行に聞く」より)・・

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    本日、4月5日(土)は、第183回・現代俳句協会青年部勉強会「現代俳句の伴走者・大井恒行に聞く(於:現代俳句協会会議室)であった。聞き手は、青年部部長の黒岩徳将+田中惣一郎。予定は、13時から15時半終了だったが、懇親会会場の酒場が開店する16時半までに間に合うように、自然延長にして答えた。  聞き手のお二人には、インタビューの資料として、愚生の略年譜、『水月伝』第Ⅲ章の作品の抜粋(追悼句の根拠になる句や句集を補注)、愚生の「一九七〇年代の俳句論『社会性から自然への成熟』と『過渡の詩』、『中谷寛章遺稿集』の抜粋、「俳句は、過渡であることをやめてはいない」(「俳句」2021年12月号)、補足:中谷寛章遺稿集から「社会性から自然への成熟 金子兜太氏へ」、愚生の「金子兜太の挫折」(「俳句研究」1982年6月号)等々、とてもすべてには触れきれないコピーの資料を用意して下さっていた。  その他、田中氏個人蔵の「現代俳句」(南方社)、「俳句空間」(弘栄堂書店版)などもお持ちいただいていた。  愚生自身がほとんど忘れていたことなど、さまざまなことを掘り起こしていただいた。感謝!!  今回の勉強会の様子は後日、現俳青年部のアーカイブとして、視聴ができるそうである(申し込みが必要‽)。  ともあれ、愚生がその句におけるエピソードなどを語った『水月伝』Ⅲ章のレジメから少しだけがが、以下に紹介しておこう。    悼 中村苑子(二〇〇一年一月五日・享年・八七)   切り抜きは重信の記事桃遊び    参考:翁かの桃の遊びをせむと言ふ   悼 糸大八   高屋窓秋句集『花の悲歌』の装画は糸大八    「花の悲歌」芥子の花にぞとこしなえ  悼 北川美美  捧ぐいのいち眞神考とぞ初御空   参考:北川美美「豈」同人『「眞神考」』を出版  悼 清水哲男  されど雨「天と破調」という遺髪   清水哲男:「増殖する歳時記」管理人。「俳句界」顧問  悼 黒田杏子  木の椅子にかけず逝かれし杏の子  参考:第一句集『季の椅子』  悼 齋藤愼爾  愼爾深夜の夏の扉を開けましたか  参考:句集『夏の扉』  悼 澤好摩  極彩のみちのくあれば幸せしあわせ   倒れしのち、「しあわせ、しわさせ」とつぶやく          撮影・鈴木純一「日の本や燕は恋をしに来る」↑

川上弘美「春の宵クローンなのにほくろがない」(『王将の前で待つてて』)・・

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  川上弘美第二句集『王将の前で待つてて』(集英社)、「あとがき」ともいうべき「俳句を、始めてみませんか」に、    最初の句集である『機嫌のいい犬』を上梓したのは、二〇一〇年だった。おさめられているのは、俳句を初めて作った一九九四年から、上梓した前年の二〇〇九年までの、十五年間の句である。  それから月日は過ぎ、気がつくと第一句集を出してから、ほぼ十五年たっている。つまり、俳句を始めてから、今年で三十年というきりのよい時に、こうして第二句集をまとめることができたことを、とても嬉しく思う。 (中略)  そもそも、小説を本格的に発表する前に、俳句という詩形に出会い、言葉で遊んだり細心に言葉を扱ったり、時にはほとんどなじみのない言葉をむりやり俳句にしてみたり、という作業は、わたしにとっては、とてもいい訓練になるものだった。 (中略)   これも、文庫版第一句集の長嶋有さんとの対談で出た話題なのだが、俳句は、私性 (わたくしせい) が高いにもかかわらず、句会の場でその句を直されたり批評されたりしても、自我が傷つくということが、ほとんどないのだ。そのことから敷衍 (ふえん) するに、自分の俳句を語ったとしても、それは自分を語ることにはならないのだ。それよりも、作った当時の景色や、まわりのできごと、連想などがどんどんあふれ出てきて、俳句そのものを語るよりも、誰かと当時の思い出ばなしをしているようなあんばいになってくる。  だから、三十年分の、それぞれの一句を語ることができて、今はほんとうによかったと思っている。  とあった。その中の一篇を以下に紹介する。  2011年の一句  かつて野原今また野原夕凪 (ゆうなぎ) て       東日本大震災が起こってすぐには、震災の句を作ることはできなかった。       けれど、それ以降に大半を作った第二句集の句は、つねに震災のことが       心の奥にあるのだと、読みかえしてみて感じる。  集名に因む句は、    王将の前で待つててななかまど          弘美  であろう。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。    炎昼の舌太く怒 (いか) れる男    おとうとの中に父をる南風 (みなみ) かな   夏星や失せしものみな海底に   コンビニの元は畳屋秋時雨   車輛中すべて他人や秋深む ...

山下光子「空に桜地には名もなき草の花」(立川市シルバー大学「第8回・俳句講座」)・・

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 昨日、4月2日(水)は、立川市シルバー大学・第8回「俳句講座」(於:曙福祉会館)で、近くの高砂公園を巡ってくるという吟行句会だった。一昨日から、降り続いた寒の戻りの雨は、午後になって、ほぼ止むという幸運?だった。  満開になったばかりの桜は、風雨にもびくともせず凛と咲いていた。吟行だから、嘱目吟である。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。     街路樹の中の一樹の桜かな           中尾淑子     蘖 (ひこばえ) に花の一輪老樹朽つ      古明地昭雄      鳩我に向い真っ直ぐ花の雨           林 良子     咲き誇る染井吉野や養花天          堀江ひで子     花散らし傘に貼りつくハートかな        島田栄子     花冷えやお地蔵さんも手を隠し         原 訓子      花枝垂れ固き蕾に触れもして          大西信子     雨あがりしだれ桜もひとしほに         柳橋一枝     雨にぬれ艶めかしくも咲き誇る         中村宜由     春うらら綿アメ散らし吉野山         小川由美子     風に舞い桜ひらひらここかしこ         手島博美     桜雨深く静かに染み透る           村上たまみ     花冷えや桜も虫もひと休み           山下光子     白木蓮 (もくれん) や天に顔見せよそ見せず   河本和子     足元のに鳩群れ来て春寒し          白鳥美智子     雨上り鳥のさえずり花七分          赤羽富久子    胴吹きの桜雨ふる花の昼            大井恒行  次回は5月7日(水)、兼題は「子」と「憲法記念日」各一句。        撮影・中西ひろ美「どの芽に雨があたって愛されて」↑

野ざらし延男「黒人街狂女が曳きずる半死の亀」(「現代俳句]4月号より)・・

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 「現代俳句」4月号(現代俳句協会)、ブログタイトルにした、野ざらし延男「 黒人街狂女が曳きずる半死の亀 」の句は、おおしろ建「新現代俳句時評/沖縄の黒人街」の文中のもの。それには、  (前略) 一九六一年頃の作品である。野ざらし氏の第一句集『地球の自転』(一九六七年刊)に掲載されている。「序に代えて」を故・金子兜太氏が書いておられる。  実に凄惨な句である。差別された街である「黒人街」を、凌辱されたであろう女性が、胸をはだけスカートも脱ぎ捨て、笑い狂った顔で、「半死の亀」を曳きずり歩く。そんなイメージが湧く。だが、野ざらし氏は、「狂女」は基地権力者の象徴である「米軍」だとする。「半死の亀」は米軍の植民地支配に苦しむ沖縄の姿だという。そう考えると掲句はますまし悲惨な情景が浮かぶ。米兵の母国アメリカは「狂女」である。黒人を差別するだけでなく各国の戦場で住民を虐殺する。過重な基地負担に喘ぐ「半死の亀」を曳きずり晒す。亀はおとなしく従順で、沖縄の人々を思い起こさせる。甲羅には日米政府によって背負わされた基地が重く揺れる。  とある。他の論考では高橋修宏「特集『昭和百年/戦後八十年 今、現代俳句とは何か』/ 現代俳句のハードコア 」も読ませる。 (前略) 杭のごとく     墓     たちならび     打ちこまれ        高柳重信   (中略)  一行目「杭のごとく」という直喩に続く、「墓」、そして「たちならび」、「打ちこまれ」に至って、われわれの目の前に荒涼とした光景のイメージが浮かぶ、この尋常ではない「墓」の景が呼び出すのは、戦場における死者たちの粗末な棒切れのような墓標だ。多行形式のフォルム自体が、恰も戦場での墓標が林立するようにも見えてくる。  しかし現在、そのような「墓」が、ウクライナやガザをはじめ、世界の紛争地帯に増え続けているのではないか。この多行表記による強度と衝迫力を伴って、まざまざと現在を予見するようなリアリティが現前するようだ。  そして、巻頭エッセイともいうべき「直線曲線」は、赤野四羽「 『兜太と龍太』二巨星の光程 」。ともあれ、本誌本号より、いくつかの作品を以下に挙げておこう。    サイネリア待つということきらきらす       鎌倉佐弓    九万秒足らずのの一日鼓草           高野ムツオ    祝婚歌改行し改行し春...