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松平修文「夜明け前に氷の鶴は解けてしまひ」(『松平修文全歌集』より)・・

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 『松平修文全歌集』(青磁社)、解説は大森静佳、その中の「3 俳句と詩」には、   六十三歳で青梅市美術館を退職した修文が私家版として相次いでまとめたのが、句集『沼の絵』と詩集『Rera』だった。十九歳で上京する際、八歳から書きためてきた俳句と詩の原稿を東京に送ったが、その量はなんと柳行李七つ分になったという。退職後、整理しようと行李をあけてみると原稿は虫食いでぼろぼろだったが、かろうじて救出できたものを出版したという経緯がある。   鯉魚を抱へ女沼よりあがりくる   (十四歳)   くくくくと笑ふ少女を煮てやらうか (十五歳)  句集『沼の絵』には十二歳から十九歳までにつくられた二二七句がおさめられている。私は今回ははじめて通読し、そのあまりの早熟ぶりと、後年の短歌作品における主要なモチーフと世界観がこの時点でほとんどすべて出揃っていることに驚愕した。 とあった。  愚生が松平修文と席を共にしたのは、忘れもしない40年前、東京で開催された坪内稔典らと「’85現代俳句シンポジウム〈東京〉」で、「俳句と短歌の交叉点」を開催するための打ち合わせ会でのことだ。ここで、多くの歌人の方を知ることになるが、その後歌集『水村』を贈られ、その静謐な世界に魅了されたことを覚えている。その後、お会いする機会はなかったが、この度の全歌集によって嬉しい再会ばかりでなく、その句集を読ませていただくことだできた。  ともあれ、、以下に、いくつか、句と歌のいくつかを挙げておこう。  あめんばう ゐぐさ とうすみ さぎ うぐひ 飼ひならす娘 (こ) は名を「川」といふ                                       修文   北風の吹くころ樹下に萌え出でしはこべらよいつまでの生恥  朝な朝な雨戸を開けてわれは見ぬ沼のうへとぶ黒きふろしき  水につばき椿にみづのうすあかり死にたくあらばかかるゆふぐれ  花曇の街にてひろひしタクシーの運転手は「墓場までですか」と言へり  老母 (はは) が早づ忘れしは亡夫 (つま) のこと、そして四人の子を下より順に忘れき   流れてゐるのは時間そして何もかも消し去つてゆく暗黒の霧   棘だらけの枯れ木が保育所を囲む   寒き火を焚くは螢か草霊か   魔女が来て僕の背中に蛇を描   松平修文(まつだいら・しゅうぶん) 1945年2月...

武藤幹「冬至湯に無頼の過去を沈めけり」(第7回「浜町句会」)・・

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                            撮影・川崎果連↑   12月5日(金)は、第7回「浜町句会」(於:中央区人形町区民館)だった。以下に1人一句を挙げてこう。    ちくわぶと取りのこされて冬の夜             米原拓土    秋秋や仲代達矢の眼の力                 村上直樹    解きがたい一行のよう冬の君               武藤 幹   ゲルニカやまほろばに立つ鷹柱              川崎果連    寄鍋もやがて湯どうふひとり鍋              植木紀子    背徳の一因となる冬薔薇                伊藤左知子    冬の雷ナースコールの鳴り止まず             石原友夫    もの食べる人の孤独や氷面鏡               林ひとみ    冬の淡海水鳥の影深く落つ                宮川 夏   ひと恋うに時効はあらじ木菟の鳴く            白石正人    天日 (てんぴ)  にんげんをそうぞうしなおしてください  大井恒行        撮影・中西ひろ美「裸木の列となるまで日差し」↑

筑紫磐井「前頭葉にさwさわ湧いて明易」(「豈」68号)・・

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 第4次 「ー俳句空間ー 豈」(豈の会/発売・日本プリメックス株式会社)、第10回攝津幸彦記念賞の発表、特集は「ユネスコ登録戦略の最前線」。巻末には、文化丁・文化芸術推進基本計画(第3期)に向けてパブリックコメント(国民の意見の募集が令和9年に行われる「◆俳句ユネスコ無形文化遺産登録への意見表明◆」の案内が掲載されている。  特集の執筆陣は、筑紫磐井「 真面目な顔をした俳句ユネスコ登録論―-我々はユネスコ登録にどう立ち向かうべきか 」、堺谷真人「 処土横議のすゝめ―ーユネスコ問題から俳句批判へ 」、大井恒行「 改めて問う、その中身と現代俳句協会のなすべき当面のこと。 」、トマス・マーティン「 ドイツから見たユネスコ登録問題 」、中島進「 『アート』としての俳句はどこへ向かうのだろうか」 、干場達矢「 価値について」。  ともあれ、以下に、第10回攝津幸彦記念賞(正賞該当作なし)と近年、「豈の会」入会された方を主に、いくつかの句を挙げておこう。    枯木から枯木へ渡す万国旗            朽木れん(准賞)    さへづりや窓が四角にしてとほし         斎藤秀雄(佳作)    息する。卵の殻に詰まって翳る         超文学宣言( 〃)    攝津幸彦ですひひひひひ旱のネコがにゃあ     雨霧あめ(〃 )    冬銀河点描の犬壁面に             伊藤左知子    夕焼くるこの手かえそうと思う          男波弘志    初恋にして小走りは時雨かな           各務麗至    肉桂の掻かれし蛤の遺憾             白石正人    かこむ霧きえぬ霧                中島 進    夜の情事昼のいとなみ燕子花           中嶋憲武    菅笠にとんぼの止まるゆきがかり         渤海 游    はつ恋のひとの白髪の涼しさよ          村山恭子    とざいとうざぁい。なつはぎきちこう白おうぎ    凌    ノーベル賞より蛇笏賞生身魂           宮村明希            第11回攝津幸彦記念賞(評論奨励賞)↑            ・締め切り 2026年6月末            ・原稿 400字詰め30枚以内            ・発表 2026年秋 「豈」6...

中田美子「コリオリの力で右折鰯雲」(「ユプシロン」No,8)・・

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 「ユプシロン」No.8(発売・小さ子社)、その「あとがき」に、  (前略) 普通に俳句を書いている人間が、AI技術について思うことといえば「すでに書かれたものは書かない」というばかりか、「これから書かれるであろうと予想されることも書かない」ということになって、またまたハードルが上がったな、ということぐらいだ。結構大変。  自分の書きたいもの、好きな世界を、自分らしく書くのであれば、たとえどれほど凡庸であり、ありふれた作品であっても、それでいいんじゃないの、という人もいるだろう。確かにそれも悪くはない。ただ、それだとたぶん、「心のこもった手作りのお誕生日カード」と同じような気がする。  私たち四人もいつの日か、手作りカード上等、と思う日が来るかもしれない。その時はそれでもいいと思うけれど、その場合は、この『ユプシロン』の印刷部数は、一人あたり十部あれば十分かな、と思う。  とあった。ともぁれ、以下に一人一句を挙げておこう。    羊歯類に那由多の記憶夏の水       中田美子   真顔にて認証さるる事務始        岡田由季   釉薬の上を釉薬冬の星         小林かんな   兄弟に挟まれ同じ氷菓持つ        仲田陽子   ★閑話休題・・由井幸男「あきのひをへやにひろげてまどろみぬ」(「立川市シルバー大学俳句講座」第4回)・・  12月3日(水)は、「立川市シルバー大学俳句講座」第4回(於:立川市曙福祉会館)だった。宿題は、平仮名で俳句を2句作って来るだった。以下に一人一句を挙げておこう。    みちのくのみさきいろどるななかまど     永澤直子    ひとときのゆうひをまといふゆもみじ     村井悌子    はがでてるいきているんだしくらめん    荒井美智子    かぜにまいちりゆくもみじうらおもて     服部清子    きにしないいいよいいよとちちのこえ    樺島美知子    おいらくのほのかなおもいあたためる     由井幸男    なつかしいたきびできないおちばはき    小菅多津子    がいへきとそうのまくはりでふゆのひ     澁谷眞弓    かんたろうゆげのむこうにみえかくれ     平田國子    かなしみのきをめぐりきてすこしふゆ     大井恒行  次回、1月7日(水)は、兼題「一月」、「井」。     撮影...

大井恒行「聖霊(スピリット) にんげんを創造しなおす淑気」(「現代俳句12月号)・・

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 「現代俳句」12月号(現代俳句協会)、巻頭の「直線曲線」は高橋修宏「多行形式をめぐって」、その中に、 (前略) 一碗ごとに焼く楽茶碗と多行形式の俳句―-。そのすぐれて魅力的な比喩には、はからずも林氏の昨今の俳句情況に対する鋭利な批評さえ書き込まれているのではないか。彼が編纂した多行形式のアンソロジーに、くり返し、その「序」として次の高柳重信の言葉が掲げられていることからも了解させされるのである。   端的にいうならば、多行表記は、俳句形式の本質が多行発想であることを、身にしみて自    覚しようとする決意の現れである。したがって、、俳句表現を、一本の垂直な棒の如きものとし て認識しようとする人たちには、もちろん、多行表記が存在し得るはずはないのである。まし て、俳句形式について、如何なる洞察を持たないか、。あるいは、それを持とうとしない人たち には、はじめから、一行も多行も、それこそ、何も存在しないのである。                   (高柳重信、「俳句評論」九十三・九十四号より)  ところで、あらためて高柳重信の全句集を繙くと、ひと言で多行形式といっても、けっして当初から安定した表記ではなかったことがうかがわれる。 (中略)  ともあrふぇ、多行形式の俳句は、すでに現代俳句の歴史のなかに独自な足跡が刻み込まれている。われわれは、そこから何を見い出し、また何を受け取るべきなのだろうか。少数の実践者による、確かな成果が提示されているにも拘わらず、そにの可能性が十分に汲み尽くされていると言い難く感じるのは、私だけではないはずである。  とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておきたい。    水鳥におほぞら深く底ひあり       正木ゆう子    毬栗は四万六千本の棘           坊城俊樹    まず海馬ぬれてにんげん時雨かな      谷口慎也    まだ父がサンタと知らず子の寝顔      望月哲士    白杖の地をたしかめていわし雲       和田浩一    林檎剥くわたしの時計だけ遅い      鈴木卯ノ花    ぐしやぐしやの手紙忍ばせ牡丹焚く     武田貴志    治らず死なず十六夜の月仰ぐ        水口圭子    球場に響く校歌よ敗戦日          北川光春    春の土手長いよ肉體も長いよ   ...

細谷源二「鳥泣きながら木のてっぺんの木の旅行」(『細谷源二の百句』より)・・

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  五十嵐秀彦『細谷源二百句/北方俳句への軌跡』(ふらんす堂)、巻末の五十嵐秀彦「細谷源二―-新興俳句から北方俳句への軌跡」に、  (前略) 細谷源二は明治三九年に東京都小石川に生まれ、出生直後に養子にもらわれた。実の両親が誰であったか分かっていない。養父は鳶職人の三造、養母の名は仲。 (中略) 大正六年一一歳で旋盤工見習いとなり、以降東京下町で工場労働者として生活した。  文学との出会いは一七歳の時、工場の先輩に誘われガリ版文芸誌「錦葉集」に参加。詩、短歌、俳句と手当たり次第に書き始めた。さらに口語短歌誌「芸術と自由」の会員となり口語短歌にのめりこんだ。一九歳で堺利彦の著作を読み、労働運動に参加。大正一五年二〇歳で、内藤辰雄とともにプロレタリア文芸誌「労働芸術家」創刊。俳句との出会いは昭和七年、二六歳のとき工場の仲間に誘われて始め、しだいに熱中していった。昭和一〇年に「馬酔木」の句会に参加。 (中略)   鉄工葬おわり真赤な鉄うてり  『鉄』  工場で事故で死んだ仲間の葬儀を「鉄工葬」という新しい言葉で表現。ここに現代的インパクトがこめられているのだから季語はいらない、という主張がはっきりと打ち出され、無季俳句の代表句のひとつとなった。 (中略)   地の涯に倖せありと来しが雪  『砂金帯』のこの句が、細谷源二生涯の代表句となったのである。最後の希望を北海道に賭けてやってきた北の大地。そこは農地にもっとも不向きな泥炭地、そして広大な白樺林だった。開拓という言葉がイメージさせるロマンチシズムなどは、この句のごとくいとも簡単にこなごなにされたのだった。 (中略)   今年また山河凍るを誰も防がず  『飲食の火』  第五句集『飲食の火』は昭和三一年刊行。五〇歳になっていた。この句には源二らしい北海道諷詠がある。これがいうなれば彼の自然諷詠であり、花鳥諷詠に置き換わる美意識というべきものだった。『地の涯』ぁら始まった北方俳句の挑戦が、リアリズムを越えてこの句に昇華している。彼の代表作のひとつだ。   ともあれ、本書より、句のみになるが、いくつかの句を挙げておこう。   寒水を焚き汽罐車を野に放つ        源二   建築主われより若く人を叱る   工場野球外野手兵となり戻らず   千人針妻ら街娼のごと佇てり   英霊をかざりぺたんと坐る寡婦   職工面会所招集令を母が...

宮崎斗士「脱走兵 夜はアザラシの痣らしい」(「六花」VOL.10 より)・・

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 「六花」VOL.10(六花書林)、表紙に特集記事のタイトル「詩歌について私が知っている二、三の事柄」とある。「六花書林創業二十周年へのメッセージ」には、久保田鶴子、栗木京子、黒岩剛仁、小池光、佐伯裕子、三枝昂之、酒井修一、高木佳子、富田睦子、藤原龍一郎が寄せている。他にも多くの執筆陣がいるが、俳人では大石雄鬼「人間の影」、連載記事に宮崎斗士「俳が流れる8/三十二年目の胴上げ」がある。そこに愚生に触れて書いてくれているので、少し長くなるが、それを以下に紹介したい。   今、私の手元にある一冊のアンソロジー『耀ー『俳句空間』新鋭作家集Ⅱ』。弘栄堂書店より一九九三年十二月二十五日発行。帯には「俳句の無限に腕を振り、俳句の言葉に世界を見る!『俳句空間』新鋭蘭に登場した作家たち16人のアンソロジー100句」とある。この十六人の中に私も含まれている。発行から三十二年が経ってしまった。 (中略)   特に強く心を揺さぶられたのは「新鋭作品欄」。「『俳句空間』では新鋭作品を募集します。小誌では十句を単位として、入選した場合、全句を掲載します。俳句形式に真摯に取り組む方、文学的野心を持っている方々は、ふるって御応募下さい」。この「文学的野心」が殺し文句だった。すぐに火がついた。初めて十句が掲載された時は、ぼっ!と全身炎上した。 (中略)  そして、私以外の十五名の『燿』参加者。オオヒロノリコ、岡田秀則、五島高資、佐藤清美、袖岡華子、高山れおな、田辺恭臣、萩山栄一、平田栄一、前島篤志、正岡豊、松澤隆晴、水野真由美、守谷茂泰といった方々に加え、参加者中最年少、若き日(二十三歳!)の宇田川寛之氏がいた。   桟橋や冬の気配に手が届く        寛之   進化論唱ふる者さへ知らぬ闇   てのひらに虹の余韻をとどめたり     (中略)  俳句作家としての大井さんに関して言えば、大井さんの第二句集『風の銀漢』(一九八五年発行)を初めて読んだ時の胸騒ぎのような感覚、感銘は今も忘れられない。。   たとえば風が、はじまる朝を烙印す    恒行   友よ明日は影を苦しむ夜の蜘蛛   耳のなかのどこか鳴りたる曇天よ とりわけ、   針は今夜かがやくことがあるだろうか  清水哲男氏による跋文「このしずまった破調の針の先端で、詩人はヤジロベェのように安定を求めて揺れているのだと信じたい」と共...