中川浩文「生きてかへるいのちや曼殊沙華の道」(「コスモス通信」第80号より)・・
「コスモス通信」第80号(発行 妹尾健)、の巻頭は、妹尾健「中川浩文の文学思想についてーその青年期の在り方ー」の中に、
(前略)中川浩文はこうもいう。「社会性や芸術性を越えるとい矛盾ーそこに介在する矛盾を救ってくれるものを私は惟(カンガ)えたいのである。」と。多くの人々はそんな立場があるのかと反問するであろう。それが信の立場だとこの真宗人はいうのである。(中略)
私は一九七〇年の或る研究室での中川浩文との会話を思い出す。私が、
「先生は俳句をどんな基準で評価されますか。」
と質問したとき。
「それは句の中に仏があるかどうかでしょう。」
と中川浩文は答えた。一瞬私は怪訝な表情をしたらしい。
「分からないでか。仏では。いのちといっていいものかもしれない。」
と先生は言い直された。
私はいまでもこの会話を覚えている。宗教と芸術、俳句のことを考えるとき、この会話は
私の中に強いものを与えてくれる。それは文学の意義と表現の本質を示唆するものであったからである。
とある。ブログタイトルにした中川浩文の句「生きてかへるいのちや曼殊沙華の道」には、「復員感懐」と前書が付されている。
実は愚生は、中川浩文については、忘れられない思い出がある。愚生が京都に居た折(東京に流れる直前、二十歳のころ)、関西学生俳句連盟の句会が行われ、100名近くの参加者があったように記憶しているが(どこで行われたか、忘れている)、愚生は「地底棲む流浪の目玉蟹歩む」の句を出した。結果は誰の選にも入らなかったが、唯一、選者としておられた中川浩文のみが、この句を特選に採ってくれたのだった。
その他の論考に、妹尾健「『谷間の旗』論ー鈴木六林男について③」がある。ともあれ、以下には、妹尾健「猛暑集/ある猛暑の記憶のために」70句からいくつかの句を挙げておこう。
文月のいたるところに喘ぐ声 健
黙礼が別離となって天の川
交配の進めば野菊ではすまぬ
なんとなく力芝には近寄らず
剣呑に返事してまた草取女
★閑話休題・・大井恒行の現代俳句協会賞を祝う会(於:インドール)・・
10月18日(金)夕刻より、白金高輪のイタリアンレストランインドールに於て、「豈」の創刊メンバーに近い人たちで、ごく内輪の、愚生の現代俳句協会賞受賞の祝う会が行われた(深謝!)。因みに、主催者によると、去る10月13日は攝津幸彦の命日、今年は30回忌で、かつ愚生の喜寿の祝いも兼ねているらしい。「豈」は今年、創刊45年、この日参加してくれた藤原龍一郎と仁平勝とは約半世紀に及ぶ交わりということになる。
寄せ書きは、池田澄子・伊藤左知子・川名つぎお・小湊こぎく・仁平勝・妹尾健太郎・高山れおな・筑紫磐井・羽村美和子・早瀬恵子・藤原龍一郎・山本敏倖・なつはづき。
撮影・芽夢野うのき「天空の神のおでまし祝紅葉」↑



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