神野紗希「寂しいと言い私を蔦にせよ」(『俳句は肯定の文学/口語・他者・偶然』より)・・
神野紗希評論集『俳句は肯定の文学/口語・他者・偶然』(朔出版)その帯に、
俳句はあらゆる存在のすべての在りようを肯定し、他者のもたらす偶然を喜ぶ詩
俗な言葉にこそ価値を見出し、新しい世界をひらくはじまりの詩、俳句。
多角的なアプローチで口語俳句の可能性に新たな視点を加える
神野紗希、待望の初評論集!
とある。冒頭の「『俳句じゃない』は俳句じゃない」の「1 〇〇は俳句じゃない?」には、
(前略)排除されたものを肯定してきた俳句が「〇〇は俳句じゃない」と可能性・多様性を排除しルールを厳格化してゆくような方向性は、俳句のもともと備えていた自由で先進的な性質を失わせる、それこそ俳句らしくないあり方だ。そもそも、季語があるか、定型を備えているかが俳句とそうでないものを区別する境界線になるのだとしたら、それはとても簡単な判断基準だ。でも、俳句を作るとき、季語や定型を守ること以上に、その句を俳句たらしめるための、もっと大切なこと――世界との距離の取り方とか、素材や言葉の取り扱い方とか、もっと本質的な態度の問題——があるのではないか。(中略)
人が眉をひそめ、またはわざわざかえりみもせず、これまではその価値が捨て置かれていたものたちにも、輝く詩の光が秘められている。そうした前提に立って、社会的・一般的な価値観からは評価されなかったものたちにも、評価基準や先入観をいったんリセットして新たな価値を見出し肯定してゆくのが、俳句という詩であり、俳人のスタンスではなかったか。
とあり、 また「あとがき」には、
(前略)文語よりも幼い表現として軽視されていた口語を、表現技術として構造的に把握することで位置づけ直し、同時になぜ口語を用いるのかという根本的な問いについても考察を試みた。それは、俳句がその草創期から数百年かけて芯に抱き、育ててきた肯定の力を再認識する道程でもあった。(中略)
なぜ口語なのか。なぜ俳句なのか。定型や季語の力とは。本質的な問いに対して考え続けることが、新たな可能性をひらいてゆくと信じている。
とあった。 本書には、至るところに、詩歌の、俳句の根本にふれる言葉がある。未来の俳句に思いをはせる俳人の多くの人達に、直接、手にとっていただきたい、と思う。例えば、
伝統と前衛は、少なくとも俳句においては、対立概念ではない。むしろ、イコールで結ぶべきものなのではないか。
鶏頭の十四五本もありぬべし
だから、長らく名句か駄句かで賛否両論ある鶏頭の句も、「十四五本」という数字に必然性はないのだ。むしろ、その無作為な数字の提示によって、必然ではなく偶然を抱き込んでいるからこそ、人間の小さな作為を超えた造化の真実へと手をかけている。
俳句に欠かせない取り合わせもまた、言葉を介してAとBの出会う偶然性をてこに、新しいイメージをひらく技法だ。
偶然を受け入れるとは、他者という存在を受け入れることである。他者はコントロールできない。俳句を詠むとはつまり、コントロールできない他者がもたらす予期できない偶然を受け入れ、その存在を内包しながら言葉を紡ごうとする営為ではなかったか。
等々。ともあれ、以下には、本書中からいくつかの句を挙げておこう。
青嵐神社があったので拝む 池田澄子
揚雲雀空のまん中ここよここよ 正木ゆう子
チューリップわたしが八十なんて嘘 木田千女
僕よ寒くて僕のどこかを掴んでゐた 大塚 凱
赤紙をありったけ刷る君に届け 外山一機
今日は晴れトマトがおいしいとか言って 越智友亮
花屋しづかにポンセチアを捨ててゐた 宮﨑莉々香
知らない町の吹雪のなかは知っている 佐藤文香
てざわりがあじさいをばらばらに知る 福田若之
あたし赤穂に流れていますの鰯雲 攝津幸彦
流氷動画わたしの言葉ではないの 田島健一
水着なんだか下着なんだか平和なんだか 加藤静夫
サングラス海に沈んでゆく早い 上田信治
まちがえている僕がいる春の河 五島高資
初夢のなかをどんなに走つたやら 飯島晴子
神野紗希(こうの・さき) 1983年、愛媛県松山市生まれ。
撮影・鈴木純一「竜天にブリキの盥おちてきて」↑
2004年3月20日いかりや長介没(1931~)

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