千代女「ほとゝぎすほとゝぎすとてあけにけり」(『俳句文化の諸相』より)・・


  綿抜豊昭・河合章男著『俳句文化の諸相』(俳句図書館鳴弦文庫)、謹呈用紙に「恩師綿抜豊昭先生のご退官に際し記念論文集を刊行いたしました。私も学生に戻りまして本名で執筆いたしました。(中略)/俳句図書館鳴弦文庫館長 川合章男(秋尾敏)」とある。綿抜豊昭「はじめに」には、


 (前略)さて、河合氏に「定年退職の記念に、連歌・俳句に関する、何か著書を」と勧められた。何度かお断りしたのだが、河合氏と共編にして下さるとのことなので、ご厚情を無にするものではないと、お引き受けした。(中略)

 そこで、学生・院生らとの調査をもとにした稿(五『明治新撰俳諧姿見集』・八『筑波根俳諧百人一首』)、改めた旧稿(一「天保俳諧」・ニ須賀川の俳人の事・六紋蒼の俳書について)に新稿を交え、天保期から明治中期までの俳諧・俳句文化の断片を“三文“の駄文にしたためた。


 とある。従って、共著のそのⅠに、綿抜豊昭「俳諧・俳句の文化」、そのⅡに河合章男「『明治俳諧金玉集』の考察ー分断をつなぐ句集ー」、そのⅢに「翻刻『俳諧田ごとの日』(監修 綿抜豊昭/校注 河合章男」が収載されている。また、河合章男「おわりに」には、


 綿抜豊昭先生は、一九五八年に東京都にお生まれになり、中央大学院博士後期課程単位取得退学され、「近世前期猪苗代家の研究」により博士(文学)の学位を取得された。富山女子短期大学助教授、図書館情報大学教授、筑波大学教授を歴任され、現在、筑波大学名誉教授である。私は、ニ〇〇一年から図書館情報大学大学院前期博士課程、筑波大学大学院後期博士課程で先生のご薫陶を受け、終了後も俳句図書館鳴弦文庫の運営や短詩文化学会の機関誌「近代俳句研究」の刊行などでご指導を頂き続けてきた。

 第三章に収めた「俳諧田ごとの日」の翻刻は、俳句図書館鳴弦文庫の事業として綿抜先生をお呼びして行った成果である。

 綿抜先生は、連歌のご研究を起点に、さまざまなジャンルの書籍文化を考察され、文学と文化が交錯する空間を捉え続けて来られた。先生のご関心は文学に留まらず現代のサブカルチャーにまで及び、今生みだされているこの国のコミックやアニメ、あるいはテレビドラマや映画、さらには料理や人のふるまいまでもが、古代からの文化の歴史を背後に置くものであることをお示しくださった。

               綿抜豊昭著作の一部↑


 とあった。ともあれ、河合章男「四 多様な文芸」から、ごく一部を紹介しておこう。


(前略)只てさへ賑はしき野やつくつくし   大阪  鶯笠

 「土筆」の句。この時代の鶯笠は塩坪鶯笠である。大阪の人だが東京府の大参事となって関口芭蕉庵に住んだ。鶯笠はもともと田川鳳朗の別号だったが、それが受け継がれたと思われる。(中略)

    あれし野の谷に先立柳かな      イツモ 曲水

 曲水は出雲松江の骨董商で、京の荒木万籟に学び、江戸、奥州を旅した後、一八五八年(安政五)に郷里に戻って茶道、俳諧を教えていた。江戸で名を上げたというが、句集に序を記すようになるのは一八八五年(明治十八)ごろからのことで、晩年の活躍が目立つ。一九〇三年(明治二十六)に八十七歳で没した。

 


      撮影・鈴木純一「花時はあぶない片目の運転手」↑

         1983331  片岡千恵蔵  (1903)

コメント

このブログの人気の投稿

高篤三「Voa Voaと冬暖のメトロ出る河童」(『新興俳人 高篤三資料集』より)・・ 

田中裕明「雪舟は多く残らず秋蛍」(『田中裕明の百句』より)・・

渡辺信子「ランウェイのごとく歩けば春の土手」(第47回・切手×郵便切手「ことごと句会」)・・