田島実桐「愛の日の風の渦巻くロータリー」(『空かぬ席』)・・


 田島実桐第一句集『空かぬ席』(現代俳句協会)、序は中原道夫「序に代えて」には、


 (前略)句集を拝見すると、大体その作家の興味の中心、傾向からそ為人(ひととなり)というのが浮き上って来る。この人は一寸世の中を僻目に見る。女性にしては(こういう表現はセクハラ発言ととられそうだが)少々醒めたものの見方(それはポーズであったとしても)読者が同調するツボを心得ていて、上手い。

  客引の当たつて困るものばかり    (中略)

 この作者は木目込み人形を作る仕事を生業としている。デパートなどでも展示会をやっているらしいのだが、生憎拝見したことが無い。俳句で見る様な彼女の気質がどんな人形を生みだすか、一度は見ておいた方が良いだろうと思いつつ実現していない。人形を作り出す、色々な創作の中でそれに傾倒したということは本筋の処では優しい人なのではと思っている。(中略)

 人形に関する細やかな、神経とはまた違った発露が俳句という表現に落とし込む作業が、決して別の様に見えていてそうでないことを、感じ始めているのではち思う。今後楽しみな作家が、ひっそりと「銀化」の森の隅に燻っていたかの様。


 とある。また、今井聖の「跋」には、


 『空かぬ席』の中には見立て、機知、感覚、情趣的諷詠など従来の俳句作品に見られる典型的な傾向に混じってどこか不思議な世界が立ち上がる。不思議というより不穏な空気と言っても良い。それはむしろ「詩」にとっては大切なこと。個人的な息吹を感じさせる尋常ならざる風景こそ「詩」の要諦なのだから。(中略)

 文学作品は全てフィクションであり、演出である。虚子は俳句の情趣は明るく前向きで希望があるものに限ると言った。つまり向日性こそが俳句の本領だと。僕はそうは思わない。自己の中の暗いものや重いものを抉り出すのもまた文学の要諦だ。田島実桐の個性はそこに際立っている。実桐さん、実桐は「見切り」の意でしょうか。まさかね。


とあった。集名に因む句は、


  日短か誰か死なねば空かぬ席      実桐


であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの句を挙げておこう。


  バットエコーシンセイワカバ晩夏光

  靴紐の✖✖✖と春を待つ

  夜行図に百鬼をらざる涼しさよ

  裸木と裸になるであらう木と

  焼鳥の煙は鳥に帰りたく

  襖開き隣の部屋の灯がどつと

  母の日のその翌日の母を訪ふ

  着膨れの手薄の手足さすりけり

  ばつたんこいつもだれかが先にゐる

  人格の形にスリッパ脱がれ冬

  北窓が開き空家でないらしい

  花散らす雨を可笑しく走りけり

  花屑の出るは出るはの旅鞄

  生きてゐる他人の汗の光りやう


田島実桐(たじま・みぎり) 1961年、福島県南会津郡生まれ。



    撮影・芽夢野うのき「春や春金柑の家に来て夜が来る」↑

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