井澤勝代「面(おもて)変へ五役“小栗“や冬芝居」(「立川こぶし句会)・・

 


 本日、12月12日(金)は、立川こぶし句会(於:立川市女性総合センター アイム)だった。以下に一人一句を挙げておこう。


  義父愛でしはぜの盆栽色づきぬ     三橋米子

  落日に九輪の輝き冬紅葉        井澤勝代

  「元気です」訃報に涙冬の朝       髙橋桂子

  二パーセント不戦の誓い冷え冷えと   和田信行 

  車窓よりよせくる光冬曙        山蔭典子

  厨から母の鼻歌むかご飯        川村恵子

  生き生きと死ぬこと語る日向ぼこ    伊藤康次

  長電話切れるまでの間(ま)秋更くる  大澤千里

  裸木や我慢しどころ天を衝く      尾上 哲

  マニぐるま手繰り出される冬のマントラ 大井恒行



★閑話休題・・島一木詩集『魂の秋/秋田の聖母に捧ぐ』(冨岡書房)・・


 島一木詩集『魂の秋』(冨岡書房)、献辞に「秋田の聖母に捧ぐ」とある。「あとがき」相当の「第二の少年期」には、


 (前略)一九九二年六月に、私はキリスト教ローマ・カトリックを受洗した。その三年前から、私の母方の祖母の死をきっかけとして、さまざまな信仰への不思議な促し(神秘体験)を受けるようになったが、この間の敬意については二〇〇五年八月から二〇〇七年十二月にかけてカトリックの横浜アクション・グループの機関紙「ヴァチカンの道」に詳しく報告したので、そちらを参照されたい(この報告もブログに発表したが現在みつからない)。(中略)

 「洗礼」はカトリックの教義では秘蹟の一つであり、イエスズ・キリストの十字架の功徳によって神から勝ち得た恵みであり、それによって人間が一生に一度だけそれまでに犯した罪を原罪と共に完全に許される儀式である。つまり、現代風に言えば、一生に一度だけ心をリセットできるということになるだろうか(比喩が乱暴だが)。(中略)

 それはいわば第二の少年期とも形容できるような状況であり、心も感覚もまっさらになって、少年の頃の日曜日の朝のまっしろな眩しさが戻ってきたように感じた。私はおっと幸いとばかりに、浮かんでくるそれらもろもろのイメージを俳句や四行詩の形で書きとめ始めたのである。


 とあった。その4行詩を以下に、2篇だけ紹介しておこう。


      ばった

 道ばたで お爺さんが 将棋を

 さしている 「ほら、王手!」

 とたんに 待ったがかかった

 敵陣に ばったが飛び込んだのだ

   

     木々の 祈り

 葉が みんなちって 木々が

 裸になると あとはいっしんに

 風にたえて 祈っている

 そのいちずさが つたわってくる



     撮影・芽夢野うのき「救急車を呼んだのはあなた箒草」↑

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