大和まな「満州の話で終はる端居かな」(「円錐」第108号より)・・
「円錐」第108号(編集員 山田耕司/今泉康弘)、愚生は、古田秀「恍惚の旅人」とともに大井恒行「優れた俳句は無季も有季もある」を、特別寄稿扱いで、書評『澤好摩俳句集成』を寄稿した。ここでは、「円錐」同人の方の「証言/現代への道ーー大和まな『まぼろしの国に生まれて』(構成/今泉康弘)の部分になるが、紹介したい。
私は昭和十五年(一九四〇年)一月一日、いまの中国の長春(ちょうしゅん)で生まれました。長春はそのとき、満州国の首都であり、新京(しんきょう)という名前でした。
親が私に付けてくれた名前は和子(かずこ)です。「平野和子」。この四文字を並べ換えると「平」「和」「子」になる。「平和の子」。それが私の名前に込めた親の思いです。しかし、私の子ども時代は「平和」どころではありませんでした。(中略)
父は通信の傍受をしていたことから、様々な情報を入手できたので、敗戦を一ヶ月前から知っていたといいます。ところが、その前に関東軍(満州を支配していた日本の軍隊)は、日本人を置いて、真っ先に逃げてしまいました。(中略)
父が留守の日のことです。母と私と弟が家で夕飯を食べていると、家のドアをドンドンと叩く音がして、誰かが勝手に押し入ってきました。ソ連兵です。(中略)外套を着ていて、背中に機関銃を背負っています。白人の顔ではなく、アジア系だったと思います。私と弟は母の左右に坐っていましたが、母にしがみつきました。母はすぐさま、私と弟に、「早く泣きなさい!泣きなさい!」と言いました。私たちはあまりに怖かったので、何が何だか分からないままに、大声を上げて泣きわめいたのです。母の膝にしがみついて、泣き叫び続けました。ソ連兵は、そにまま私たちを見つめています。しばらくそうしていて、やがて、ソ連兵は、そのまま出て行きました。子どもの頃は、あの兵隊が何をしにきたのか、母がなぜ私たちを泣かせたのか、意味がわかりませんでした。大人になってから、。あのソ連兵は母を犯しにきたのだ、と分かったのです。(中略)
敗戦から一年後、昭和二十一年九月に、ようやく日本へ引き揚げることが決まりました。(中略)
佐世保の港に上ると、すぐに頭の上から白い粉をたっぷりかけられました。DDTです。全身真っ白になりました。佐世保の施設で二、三日、過ごしてから、列車にのり鹿沼へ向かいました。(中略)
鹿沼に着いたのは昭和二十一年十月七日です。鹿沼駅で汽車を降りて、母の実家を目指し、五人で歩いて山を越えました。(中略)
戦後、父は定職に就くことができず、母の実家の作った米を東京に持っていき売っていまあした。闇屋です。また、父は夜寝ているとき、すごく魘(うな)されていました。寝言を言うのですが、ヒーッ、ヒーッと拷問されいるような寝言なのです。それが毎晩、続くんです。(中略)やがて、毎日ではなくなりましたが、、父が六十一歳で亡くなるまで続きました。満州のことで何か恐怖があったのでしょう。何があったのか、本人には訊いていません。私はまだ歳が若くて、訊けませんでした。
とあり、今泉康弘の解説には、
まなさんの父・正次さんが満州に 渡ったことは民法と関係がある。当時の民法では、女は満二十五歳、男は満三十歳に達するまで、「父母の同意」が無ければ結婚できなかった。それゆえ、「お嬢さんを僕に下さい」というやり取りが発生した。(中略)
前掲『新京』の八月十日の条に、「関東軍や満鉄のおえら方はもう、いなくなってしまった」とある。ソ連参戦の翌日だ。このことから明らかなのは、軍隊は自国の民を守らず(関東軍)、他国の民を凌辱することだ(ソ連軍、南京の日本軍も)。それが軍隊の本質だ。
とあった。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう。
ねこふんじやつた公民館のピアノ捨つ 後藤秀治
豆を煮るこの世のものを着てふくれ 山田耕司
戦死者の学徒出陣身にぞ入む 丸喜久枝
海市より打電「ニイタカヤマゲザン」 摂氏華氏
忘却は幸せ月にうすおぼろ 小倉 紫
死を前に地雷前にきぶくれて 荒井みづえ
幼馴染の秋思と遭うて橋の上 味元昭次
籐椅子の軋みに動く猫の耳 原田もと子
葦原に私が捨てた日章旗 今泉康弘
十二月八日いまさら父の誕生日 大和まな
鞦韆は愁ひをとばすために漕ぐ 横山康夫
橋脚に暴流のあと冬の蝶 小林幹彦
凍星の数の練習問題を 赤羽根めぐみ
そんなりに地蔵は冬を立尽し 矢上新八
元日の鳥が羽ばたくのも静か 来栖啓斗
かりがねや飛び飛びに来る詐欺メール 和久井幹雄
野ざらしはまた夢ざらし無蓋貨車 澤 好摩
撮影・芽夢野うのき「中庸という岸辺の春をくれてやる」↑

コメント
コメントを投稿