四ッ谷龍「万両のかげに死人の爪吊らる」(「むしめがね」No,26)・・


 「むしめがね」No.26(むしめがね発行所)、四ッ谷龍「連載 再論・田中裕明/第4回 浄化された厭世―-『花間一壺』から『櫻姫譚』へーー、「補論C『現象学的還元』って何だ」、「

補論D田中裕明論をめぐるQ&A」。四ッ谷龍講演録「横井也有を愛した文人たち~坪内逍遥から高遠弘美まで」。その「再論・田中裕明(連載その4)」の中に、「柳元佑太への反論」の部分に(四ッ谷龍の反論は精緻を究めているので、興味ある読者は直接、本誌に当られるようにお願いしたい)、


 (前略)柳元は、田中裕明の時間観は円環的なものだと強弁するために、「時間が逆流したように見えるのは過去が循環してくるからだ」という理屈をひねり出している。そのためにニーチェまで登場させるのだが、それならば「夜の形式」の文章とニーチェの文章は具体的にここに共通性があると、対比して示す必要があるだろう。柳元は「俳句」2024年12月号の田中裕明特集に「『夜の形式』という多面体」という文章を寄稿し、そこでは裕明の時間観はインドのウパニシャド哲学やストア派に見られる「円環的時間」と同じ理屈だと言っているのだが、そう説くのであればウパニシャド哲学やストア派のテキストを実際に引用して、「夜の形式」とどこが一致するのかを検証しなければならない。私が『嘔吐』や『知覚の現象学』や『正法眼蔵』を具体的に例示したように。

 要するに、柳元の論は元のテキストに基づいた実証性というものが欠けているのである。自分の思いついたことを書いて、それにニーチェだインド哲学だストア派だといった飾りをつけているにすぎない。

    四、渚にて

 柳元は続いて、裕明の時間観は円環的なものであったと主張するために

   大学も葵祭のきのふけふ       『山信』

   渚にて金澤のこと菊のこと

 の二句を挙げ、これが円環的時間構造を体現していると論じている。このうち、「大学も」の句については私はとくに反論すべき必要を感じない。なぜなら、これは「夜の形式」が書かれる前の『山信』時代の句であり、当時はまだ現象学を自作に反映させるには至っていないからだ。最初期の裕明は「ホトトギス」的な季節循環の世界観、つまり虚子が「寒来暑征秋収冬蔵」という語を引いて言っていたような、自然随順の態度で句作していた。それを円環的時間の体現と言いたければ言ってもよい。だが、「渚にて」の句はそれとは違う。「夜の形式」を書いて以後、すなわち『花間一壺』以後に裕明の作風は一変する。「大学も」の句と「渚にて」の句の世界を混同することは許されないのである。


 とあった。ともあれ、以下には、同誌本号より、四ッ谷龍「先祖を釣る人」の句のいくつかを挙げておきたい。


  税務署のゆるキャラも出て豆を撒く        龍

  満天星が咲けり拍手の渦の中

  蟬声や長くなりゆくバスの列

  一秒の経つが痛みや蓮香る

  秋明菊人の匂いにひらきけり

  標本百歩蛇(ひゃっぽだ)吻を白く沈め

  冬の鵙境界石に「陸軍」と

  

        撮影・中西ひろ美「先代の猫の命日小雪舞う」↑

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