天村啓月「わが輩はねこではあるが招かない」(「川柳スパイラル」25/GAKKOの川柳な人たち)・・
「川柳スパイラル」25(編集発行人/小池正博)、特集は「題詠とは何か」。「【資料発掘】『天馬』10号/前句附の自由性に思うー川柳の性格探求のためにー 河野春三」には、
(前略)前句附で懸賞金を獲得するためには、出題の前句に対して、最も穿った附句を附けることが必要ではなかったろうか。辛辣な諷刺と穿ちによって、点者の眼を奪い、高点を得ようと企画したのであろうことは十分推察される。(中略)
勿論私はこのことを以て川柳がもつ諷刺や穿ちを否定しようというのではないし、柳樽以前の前句附からそういうものは俳句の前身である発句より多量に含有していたこと認めるけれども、川柳は必ずしも諷刺や穿ちがなくとも、生活諷詠であってもよいということは言い得るものと考えるものである。(中略)
俳句が発句(立句)であったように、川柳が平句的な立場にあったということを率直に認めなければならない。
もともと俳諧は、山本健吉氏が指摘するまでもなく、和歌に対してより卑俗的な文芸であり、庶民的なあり方の上に成立していた。談林俳諧が示すものは卑俗な庶民的な文芸であって「雅」の精神からは程遠いものであった。(中略)
俳諧の分身として、自由な立場から人生を諷詠してゆくことこそ川柳に与えられた本然の使命であり、発句的な制約のないだけでも俳句より以上に自由な発想と表現がゆるされる短詩であるといって過言ではない。
川柳がその前身である前句附に於て、いかなる姿と過程を辿って来たかを深思することによって、明日の川柳への自由な、明るい希望と発展が望まれることを喜びとする。
(一九五八・七・一)
とあった。ともあれ、以下に本誌より、いくつかの句を挙げておこう。
曇天の澄んでゆくとき鶴を産む 桜庭紀子
トーストにお願いを一枚のせる 綿山 憩
ポエムマシンにひろすぎる水魚館 川合大祐
言うまでは夕焼だった おれも 少しは 西脇祥貴
月日を責める右上の窓 まつりぺきん
抒情ケ浜でおどるくるぶし 石川 聡
きんにくは裏切る旗をふりながら 小沢 史
ファスナーが嚙んで世界を終えられぬ 浪越靖政
宙からの伝言θとは≫≫≫とは 宮井いずみ
宵闇に土地の記憶が浮き上がる 猫田千恵子
おはようと差し出すそれぞれのそら 畑 美樹
まぼろしに草矢を放つ一少年 清水かおり
ほんとうに光なのかこまかな傷 湊 圭伍
みの虫は山羊になりたいまま震え 兵頭全郎
独りでは保水の森を歩けない 小池正博
四肢ひかり浜を駆けてく酔っている 林 やは
撮影・芽夢野うのき「元旦の欅ごしなる川あかり」↑

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