閒村俊一「evian も若水とせむ喇叭飲み」(『徳兵衛はん』)・・
閒村俊一 俊一第3句集『徳兵衛はん』(書肆アルス)、跋文相当の「しりへがき」は高橋睦郎。栞文は、嵐山光三郎、仁平勝、佐藤文香、宇野亞喜良、時里二郎、村上鞆彦、星野高士、永田和宏、神野紗希、高野ムツオ、福島泰樹。その福島泰樹の「みづそこひのところてん」の中に、
(前略)間村俊一が下谷の焼け残った一郭の草堂に、私を訪ねてきたのは昭和六十年代になってからであった。当時間村は、水道橋後楽の路地裏のデザイン事務所「金太郎組」を根城に活動していた。(中略)
ほどなく私は、文藝季刊雑誌「月光」(彌生書房)を創刊(一九九八年四月)。間村俊一に装幀を依頼した。菊判変型、二二八頁発行部数五千、巻頭インタビュー坪野哲久。巻頭三十首は塚本邦雄、安永蕗子、岡井隆。時評に菱川喜夫、小笠原賢二、連載評論は鈴木貞美、立松和平、島田雅彦、掌編小説は唐十郎、石和隆、松田修……。与謝野鉄幹「明星」に倣い短歌を中心にした文芸の復興を目指したのである。贅を尽くした装幀とあいまって「月光」は話題を呼び、五月には二千部を増刷した。
愚生は、その「月光」の何号かに、俳句を寄稿させていただいる。それよりも、愚生が編集をすることになった「俳句空間」(弘栄堂書店)に毎号「月光」の広告版下を貰いに、間村俊一の事務所に会いに行っていたのだ(愚生の記憶では、その事務所は飯田橋の歩道橋を越えた近くにあった)。思えば30年近く以前のことになる。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくかの句を挙げさせていただきたい(原句は旧字)。
郁山人ありしころの
しかすがに了見もなき夕立(ゆだち)かな 俊一
北の冨士勝昭様
打出しや両国橋は夏の橋
明易の仁丹臭き父の霊
敗戦忌ずぶぬれの英霊の褌(ふどし)
佐藤文香に、シソ―市とちやうで
水眼鏡越しの山河やシソ―郡
七〇年代
霙して電話ボックス今出川
新地
道行きやお初徳兵衛マスクせよ
帯解くもマスク外さぬ二階かな
一月の畳に止まる亡父かな
雪岱五十四歳
蕎麦の花風呂に入りたるまゝ逝くか
鶴の鬱より十八年
天上の瀧も涸びて鶴寠(やつ)る
父あやめ母とまじはる都鳥
八十六歳なる姉を訪ひて
来よつてやがなとしいつちやんの夏帽子
つちふるや戦争がもう始まつてゐる
篠原勝之『空つぽ』展は恵比寿の月
ねんごろに器(うつは)みたして春の水
盆の月なんや徳兵衛はんかいな
シベリアに抑留されし父なりき河原にアルバム焼き捨てし父
吊るされしまゝの背広も夕焼けて
閒村俊一(まむら・しゅんいち) 1954年、兵庫県生まれ。



コメント
コメントを投稿