井上芳子「将来の夢『石ころ』と寒椿」(第49回「きすげ句会」)・・
1月29日(木)は、第49回「きすげ句会」(於:府中市生涯学習センター)だった。兼題は「雪」。句会の後、府中駅そばの「きた樽」で、新年会兼愚生の退院祝いをしていただいた。以下に一人一句を挙げておこう。
影踏みの影ほつれゆく冬夕焼け 高野芳一
白湯を手に口寂しや寝正月 杦森松一
逢ふ雪も螺旋のいのちさざえ堂 山川桂子
窓の鳥こたつの我に飛べよとな 寺地千穂
乳飲み子の匂ひ抱きしめ寒い帰途 久保田和代
古希の吾へ鈴の音かろき破魔矢かな 新宅秀則
元旦や富士借景に屠蘇旨し 清水正之
〆飾りメイドインチャイナのラベルあり 井上芳子
股視(またのぞ)き視界にぬーと寒紅梅 濱 筆治
晩年の刃先の雪のふわりかな 大井恒行
次回は、2月19日(木)、兼題は「卒業」。
★閑話休題・・髙島野十郎「花は散り世はこともなくひたすらに/たゞあかあかと陽は照りてあり」(『髙島野十郎/作品と遺稿』より)・・
『髙島野十郎画集/作品と遺稿』(求龍堂)・川崎浹著『過激な隠遁/髙島野十郎評伝』(求龍堂)、評伝の「あとがき」に川崎浹は、
私が最初に髙島野十郎と知り合ったのは、昭和二十九年(一九五四)、私が二十四歳、髙島さん六十四歳のときである。
その野十郎が最晩年を千葉県柏のアトリエで過ごし、最後に野田市の介護老人施設に収容され、漂泊の人生に終止符をうったのは昭和五十年(一九七五)、享年八十五歳。(中略)
無名の野十郎の絵に初めて注目があつまるのは、画家の死後十一年目の昭和六十一年(一九八六)、本書の冒頭で述べているように、福岡県立美術館で、「写実にかけた孤独の画境 髙島野十郎展」が開催されてからである。
その後、東京の美術館で二度展覧会が開かれ、画家への注目が東京圏にも拡がった。野十郎の展覧会は鑑賞者たちが私語も交わさないで静かにひたすら作品を凝視する、異様ともいえる情景で他の展覧会とは際だって異なる。それほど人を魅了する画家でありながら、一部のファンを除けば全国的にはまだ知られていないに等しい。(中略)
野十郎は生前画壇と殆ど交流をもたず、時代様式の先端に走ることもなく、十五年戦争の最中、また戦後の混乱期に最盛期をすごし、地味な写実主義の名のもとに一括されて、注目を惹くに至らなかった。(中略)
「近代」に背を向けた「反近代」は芸術的な冒険を試みない保守的な「時代錯誤(アナクロニズム)」とも批判 された。しかも野十郎はいかなる画壇にも属さないので、人脈もなく、陽の目を見ず、作品も美術館に保管されず、洋画壇史から全く無視さてきた。(中略)
画家の生き方もまた一風も二風も変わっていて、東京の青山や千葉県の柏で遁世の生活を送り生涯独身をとおした。しかし、時代や俗世間に翻弄されず一途に「魔業」に専心する髙島野十郎の遁世は、理想どおりには行かなかった。
とあった。野十郎の「ノート」から、二首を挙げておこう。
こゝは山、 山山山の谷なれど
かじか鳴く音にさゝるものなし
全宇宙を一握する、是れ写実
全宇宙を一口に飲む、是写実
髙島野十郎(たかしま・やじゅうろう) 明治23(1890)年8月6日~昭和50(1975)年9月17日。享年85。
川崎浹(かわさき・とおる)1930年、福岡県生まれ。

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