大井恒行「天日(たんぴ) にんげんをそうぞうしなおしてください」(「俳壇」2月号)・・




 「俳壇」2月号(本阿弥書店)、主な記事は、第40回俳壇賞決定発表/選考座談会 井上弘美・佐怒賀正美・鳥居真里子・星野高士。ここでは、仁平勝新連載「季語を考える」第二回を引用したい。


 五七五という俳句の定型は、連歌の発句がその母体になっている。季語もまた連歌から生まれたものだ。とすれば季語を考えるには、まず連歌から始めないといけない。

 ところで本題に入る前に、ひとつ片付けておきたい問題がある。 「季語」という言葉が一般に使われるようになったのは明治以降のことで、連歌および俳諧連歌(俳諧)では「季の詞(ことば)」とか「季の題」といった。それをここでは「季語」という用語に統一したい。(中略)

 連歌の式目では、「花」と「月」はとくに重要な題として扱われる。百韻では四ヶ所、「月」は七ヶ所で詠むというルールで、しかも詠む場所が定座(じょうざ)として決まっている。歌仙では「花」が二ヶ所、「月」が三ヶ所になり、俳諧でもやはり重要なテーマだ。

 ところで「花」の座では、原則として「桜」は詠まない。連歌の百韻は一ヶ所だけ「桜」が認められるが、歌仙にはまずみられない。(中略)

 ちなみに「芭蕉七部集」には、〈月と花比良の高嶺を北にして〉という芭蕉の平句がある。ようするに季語としての「花」は、「桜」と同じではないということだ。ここにも季語のフィクション性がある。(中略)

 今日の俳人も、「花」という季語にその「重層的な規定」を意識しているはずだ。まさか二文字のときは「花」で、三文字のときは「桜」なんて人はいませんよね。

 先に「月と花」を詠んだ芭蕉の句を挙げたが、最後は次のような俳句で締めてみたい。

  花の如く月の如くにもてなさん       虚子

 「田中家女将に代りて」という前書がある。「花」という季語は、こんなふうに使っていいのです。

 

 とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。


  初東風の一筋逸れし秩父谷          安西 篤

  天つ日の光ちりばめ冬ざくら         田島和生

  後醍醐の玉座に著し隙間風         森田純一郎

  蝶ひとつ一千年の枯野へと          坊城俊樹

  春光へ抱かれ出てよく吠えること       石田郷子

  漁村凍つむかし移民の選択肢         谷口智行

  青き踏むビニール傘に山映し         小川軽舟

  くぐひ引く空へお囃子響かする       吉田千嘉子

  春近し豆本めくるピンセット         馬場公江

  アルビノの栗鼠ゐて木の実降り止まず     松下カロ

  花盗人ならむ踏まれてをる邪鬼も      石地まゆみ

  霜の朝息あるものの掃かれたる        星野早苗

  綿虫や影とも灯りともつかず         加藤右馬

  退屈ねって夜の林檎に火をつける       小野裕三

  春インドゆるしゆるされ十万回の五体投地   大井恒行



     撮影・中西ひろ美「五十年経ちて遠忌となりし義母」↑

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