山口誓子「八田木枯幕営せずに津へ帰る」(『生誕百年 八田木枯戦中戦後私史』より)・・
『生誕百年 八田木枯戦中戦後私史』(晩紅発行所)、インタビュー編は聞き手に藺草慶子。対談編には、)八田木枯×うさみとしお。その他、八田木枯自選百句、西村麒麟選「八田木枯百句」、エッセイに藺草慶子「身におぼえなき光」、)西村麒麟「百年目の木枯」、八田夕刈「百歳の父の貌」など。その対談編の中に、
(前略)としお あの夜は松崎豊さんはいませんでしたね。
木枯 松崎さんが加われば、俄然座が盛り上がり、色めき立ちます。三橋さんは松崎さんに一目置いておりました。書画骨董、歌舞音曲、これらは松崎さんの独擅場です。猥談もまた一流というべき人でした。猥談も二流三流までありますから……。ともかく面白い話はたくさんあります。
としお あなたと会うと言えば、まず深川でした。東京で私がいちばん縁の深いところは深川ですよ。
木枯 深川は私のホームグランドですから……。三橋敏雄、松崎豊、うさみとしお、八田木枯と揃うと、泥鰌鍋で始まり、お座敷で松崎さんの芸を見るのが愉しみでした。(中略)
茶屋で歌仙を巻くなんて、松崎さんの世界ですね。久保田万太郎の馴染みの芸者、といっても当時八十を過ぎていた女ですが、その飲みっぷりのいいのに驚いたことや、苦労人の話は骨に沁みますね。万太郎師匠の裏話は活字に出来ない話ですがね。
としお 江戸は下町情緒の世界ですね。
そういえば、攝津幸彦は蕪村の軸や短冊を集めていて、ある日、それらを松崎さんにみせたら、ほとんどが偽物だった、と笑って話していたのを覚えている。松崎さんは晩年咽頭がんの手術をされてからは機械で会話をされていたのを思いだす。それと愚生が思いだすのは、第一期の八田木枯主催の花見の宴「花筵雨情」の市ヶ谷土手だ。三橋敏雄、亀田虎童子、松崎豊も健在だった。
ともあれ、木枯自選百句から、いくつかの句を以下に挙げておこう。
汗の馬なほ汗をかくしづかなり 木枯
汗の馬芒のなかに鏡なす
洗ひ髪身におぼえなき光ばかり
天にまだ蜥蜴を照らす光あるらし
手をつなぎながらはぐれし初夜(そや)の雁
あを揚羽母をてごめの日のくれは
家ごとに母はひとりや春の水
さかりにも戦死ざかりや花ざかり
思はねば何一つなし浮き氷
鳥は鳥にまぎれて永き日なりけり
天袋よりおぼろ夜をとり出しぬ
さざ波はかへらざる波春ならひ
戦死して蚊帳のまはりをうろつきぬ
むらさきにちかきくれなゐ鶴の疵
何もかも母ありしゆゑ細雪
藺草慶子(いぐさ・けいこ) 1959年、東京都生まれ。
西村麒麟(にしむら・きりん) 1983年、大阪市生まれ。
★開催告知★
「八田木枯と仲間・俳書展」 2026年1月15日~20日、於:神楽坂パレアナ
「八田木枯を語る」座談会 2026年1月31日、於:新宿歴史博物館
撮影・中西ひろ美「神迎え泪はただの目汁だそうな」↑

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