攝津幸彦「糸電話古人の秋につながりぬ」(「俳句四季」12月号より)・・


「俳句四季」12月号(東京四季出版)、その記事なかの、佐藤りえ「LEGEND/私の源流・攝津幸彦」が3回の連載で完結した。その 文中に、


( 前略)平成八年一月、幸彦は、同人誌「恒信風」のロングインタビューを受ける。小学館の編集者(当時)村井康司が起こした同誌は、小林恭二、三橋敏雄、岸本尚毅、澤好摩など独特な人選のロングインタビューを掲載する。パソコン通信から始まったユニークな俳誌である。記事翌二月発行の「恒信風」第三号に掲載された。幸彦はフランクに、自身の来し方から俳句に対する根本的な考え方までを縦横に語った。

 いちばん難しい俳句っていうのは、なにかを書き取ろうとして、実は無意味である、しかしなにかがある、みたいな俳句だろうと思っているわけです。

 (前略)僕はやっぱり現代俳句は文学でありたいな、という感じがあります。(中略)読み返すたびに新しいなにかが見いだされて、その底にある種の悲しみとか、あるいは毒ですね、そういうものがないとあまり書く意味はないんじゃないかと。

                        (「恒信風」インタビュー『俳句幻景』)

 平成六年の平凡社「太陽」では「高邁なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っている」とも述べている。幸彦の俳句観「意味」を拒絶した出発点から、いつしか俳諧へと直に繋がる境地へと歩を進めつつあった。(中略)

 第一句集とはその俳人の作家性が特に顕著に表れるものではないか、と常々思うものであるが、幸彦の場合、残された句集のどれにおいても、驚くべき一句、子規風に言えば「印象明瞭」な一句を発見することができる。それはとてつもないことなのではないか。そのとてつもなさが、未だよく解明されてはいない。


 とあった。ともあれ、文中の幸彦の句のいくつかを挙げておこう。


  ひんやりとしゆりんと朱夏の宇宙駅      幸彦

  雪の日の戦後に生れて以後も戦後

  チェルノブイリの無口の人と卵食ふ

  春ショール春の波止場に来て帰る

  南国に死して御恩のみなみかぜ

  階段を濡らして晝が来てゐたり

  国家よりワタクシ大事さくらんぼ

  露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな

  山桜見事な脇のさびしさよ



★閑話休題・・佐藤りえ『玻璃玻璃日記』(文藝豆本ぽっぺん堂)・・



 佐藤りえの写真集の冒頭に、


 骨董市や中古カメラ店、ネットオークションなどで安いジャンクカメラを手に入れ、整備して試し撮りをする。そうして増えた写真を載せたブログ「玻璃玻璃日記」をはじめ、気づけば15年ほどが過ぎ、flickrへの写真登録数が無料版の上限に達しました。


 とあり、巻末には、


 フィルムカメラのいいところ、デジタルにできないことは「少しの暗さ」にあると思う。全体の光量が少し足りずほの暗く、だが、それがいい。描写と明暗のバランスが自分にはたまらなく好きで、まだまだそれを見ていたい。(中略)

 この先もどこかでカメラをぶらさげて歩いていくことでしょう。


とあった。

 佐藤りえ(さとう・りえ) 1973年、仙台市生まれ。

 


    撮影・芽夢野うのき「怪しげにあかるく彼岸の実は冬よ」↑     

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