大井恒行「かたちないものもくずれるないの春」(塚越徹「ないの春」より)・・
塚越徹の便り「ないの春」は、愚生の句集『水月伝』に寄せられた評である。同封されたコピーには、詩人塚越徹(本名・高橋立男)のことが記されていた。それは、『吉本隆明全集』第38巻・書簡Ⅱ・Ⅲ(晶文社・2025年10月刊)の部分である。それには、1968年10月7日(月)の封書で高橋立男様/…吉本方 試行社)とあり、
前略/「試行」26号よりの予約領収証をお送りいたします。26号10月下旬刊の予定で進行しております。
さて「天皇制」の件です。/「天皇制」というコトバを、小生は「制度としての天皇」=「政治権力としての天皇」(旧憲法の「万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」にあたるもの)という意味で考え、戦後崩壊したとかんがえています。ただ貴方の云われるようにそれですっきりするかというとそうでないことは確かです。
新憲法では、国民の統合の「象徴」としての天皇が規定されています(中略)
「象徴」までおちた天皇が、「制度」として復活することは、反動革命の成就以外にはありえませんから、一般的に戦後の政治権力を考察する場合にまったく問題にしなくてよいとおもいまあす。
小生もべつにスッキリしているわけではありませんから、相当に固執するわけですが、政治権力を問題にするかぎり考慮しなくてよいのではないでしょうか。
吉本 拝
髙橋様 (中略)
(註2)高橋立男は、『試行』第一八号の頃、田端の著者宅へ直接講読の申し込みに行ったが、講読継続に際して、「天皇制」について質問を発した。その後、『われらの内なる反国家』に文章を寄せたり、私家版詩集『浅い眠り』を出したが、筆を折ったという。
とあった。ところで「ないの春」評を以下に紹介したい。
かたちないものもくずれるないの春 大井恒行
「形のないもの」と云えば、それこそ「形而上」ということだが、それが「くずれる」と云うことは、たとえば(・・・・)
私の年少の友人から「妄想がある。」と云われたことがある。その一言で深刻さはすぐ分った。
この句は、そのようなきびしい場面を思い描いたものではないかもしれない。
私には、この句の下敷きとなった句がある。
階段が無くて海鼠(ナマコ)の日暮かな 橋 閒石
天上に昇にしろ、地獄に落ちるにしろ、階段があれば、展望が開かれるかも知れない。しかるに階段がないと云う。
昔から、中国料理では珍重され、一攫千金をねらった密漁の獲物ともなるナマコだが、姿形は手足も頭すらなさそうな様子をしている。しかも無為のまゝ一日を終えようとしている。
有るものを書く、つまり写生は俳人ならばだれでも出来る。しかし、無いものを書くと云うことは、誰にでも出来るわけでもない。
だから「ないの春」である。
とあった。因みに、塚越徹は、大屋達治と同じく「豈」2号から同人になった。「豈」同人を辞してから塚越徹は、詩作を再開しているらしい。一方、大屋達治は、作品発表こそないものの、現在も「豈」同人である。

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