上川涼子「誰が如何なる動機に拠りて作りしか兵器に人の本性(ほんせい)は冴ゆ」(『水と自由』)・・

 


 上川涼子第一歌集『水と自由』(現代短歌社)、栞文には、小池昌代「比喩を越えて―ー『水と自由』の動物性』、石松佳「自由な眼」、菅原百合絵「天使の厳粛な美学」。その小池昌代は、


 タイトルにある「と」という助詞に、目が止まる。水「の」自由でも、水「は」自由でもない。水は水であり、自由は自由。それでいてこの二物には、やがて混ざり合うような気配があった。感覚の、鋭く立つ歌集である。表現が動的・予兆的で、言葉が比喩の枠に固まらない。比喩を超え、物の髄まで到達しようとする。そのとき、この歌人の凄みがあらわれる。

  豹の頭(づ)を模る蓋の重さにて壜のなかなる香気うごかず

「模る」がかかるのは、「蓋」でなく「重さ」と読んだ。ありふれた壜の蓋が、脳内で瞬時に豹の頭に変身する。そのとき、頭と蓋の二物は、比喩的関係を解き、水と自由さながら対等になる。二物間を、詩的「質量」のみが移動する。空(から)の壜の中、動かない香気は、獲物を狙う豹のように危険で艶めかしい。


と記す。また「著者「あとがき」には、


(前略)短歌を書きはじめたのは十六歳の夏、詩はそれ以前からのかかわりですが、作品をだれかに見せる勇気はないまま、長い時間を過ごしました。日中は透明人間のように過ごして、夜になるとテクストの中へと帰ってゆく日々でした。歌会や詩の合評会といった、詩歌の読解と批評の営みに参加するようになったのは二十代半ばのことです。私は、その営みから、どうにか人と関わり合うことができるようになった気がしております。詩歌によって出会ったすべての人への感謝をここに記します。


 とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの歌を挙げておきたい。


 チューリップの茎は東へ撓みたりなんの公理か春は深まる          涼子

 永遠にひらく眼をもつ石像を見遣りてはるぷし、とくさめせり

 旋律がわたしをそつとおとづれてはばたくまでの舌はとまり木

 死が生の正装ならこの春は仕立てよき花柄の普段着を

 鵜の喉をくだりてのちをさかのぼるいろくづのごと日々はめぐるも

 放鳥舎の二重扉を出て仰ぐ飛ばざるものの空の湛(ふか)さを 

 『エルサレムのアイヒマン』から『望郷と海』を読み継ぐ凡庸に働きながら

 書き継ぎてゆくうちに詩が書かしむる一行がある 書きたし

 生といふ痙攣をゆく黒揚羽ときをり影と入れ交(か)はりつつ

  いづれ去る身体あればこの日々を苛む湿疹さへも花

 いつしかに空の高みへ架かりたる月の静止に時流れをり

 あなたより一回多く振りかへる帰路のこの平凡なさみしさ

 息の緒にひとつらなりの空間とわたしのからだ うたふ うたへる

 無花果を裂きてひらける傷口のかくやはらかく世に生まれたり

 ひとすぢにのびるなみだの清浄が水鳥の脚に満ちて立たしむ


 上川涼子(かみかわ・りょうこ) 1988年、福岡県福岡市生まれ。   


  

★閑話休題・・第51回美術の祭典/東京展(於:東京都美術館・10月14日・火)・・


 

 愚生は、10月11日(土)夕刻、河口聖の作品展示があるので、観に出掛けた。会期は、14日(火)まで(最終日は14時終了)。



         撮影・芽夢野うのき「くれないの空を鶴来る嘴に愛」↑

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