高柳重信「人恋ひてかなしきときを昼寝かな」(『高柳重信の百句』より)・・
林桂『高柳重信の百句』(ふらんす堂)、巻末の林桂「高柳重信の道程―その句集を
区切りとして」の中に、
(前略)「何を」「どうのように」書くかは、二つで一つの不可分なことである。それを前提に言えば、いずれを先立てて取り組むかによって、自ずから違いが現れる。主流は「何を」を先立てて取り組んだ、いわゆる社会性俳句と呼ばれる「風」グループを中心とした活動であ。金子兜太の「社会性は態度の問題」(「風」アンケート・昭和29年11月)が端的な「何を」の接点を示すが、その金子も「造型俳句六章」(「俳句」昭和36年)によって「どのように」を考察してゆく」。
高柳重信らの「群」は、「どのように」を先立てて取り組んだグループである。定型詩は身なりを構う詩である。その身なりとして選んだのが、多行形式の俳句であった。(中略)
活字を用いて組むという近代的な枠組みの中で、多行表記を試みたのは、荻原井泉水である。井泉水が「二行詩」と呼んで、「層雲」(大正3年3月)に発表したのが最初である。切っ掛けは、それこそ一行で組み切れない新聞発表の作品を能動的に二行で書くという選択をしたのが最初であったが、やがてその表記の可能性を自覚して継続するようになる。
とある。
まなこ荒れ
たちまち
朝の
終りかな 『蒙塵』(母岩社版/『高柳重信全句集』内句集)
昭和47(1972)年
「愛撫の晩年」に収録。澤好摩は『まなこ荒れ」に、戦後十数年の社会状勢が反映していると見る。もちろん、直接的なものではない。川名大も、高柳は昭和二十年代後半には戦争にかかわる社会性のある句をメタファーの方法で書いていたと指摘した上で「個人的な憂愁感や倦怠に閉ざした」句に見えて「一種の晩年意識を否応なくもたらす社会機構が背景にある」(『昭和俳句史』)と指摘する。晩年意識は、高柳のキーワードの一つでもある。晩年はまず「まなこ荒れ」る視覚からやってくる。それは個人の身体の劣化の自覚と自身の生きる社旗への認識と分かちがたいアマルガム状態として感得されている。
ここから先は、是非、本書を直接、手に取っていただきたい。以下に、句のみになるが、いくつかを挙げておこう。
日本の夜霧の中の懐手
月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな
しづかに
しづかに
耳朶色の
怒りの花よ
たてがみを刈り
たてがみを刈る
愛撫の晩年
飛騨(ひだ)の
山門(やまと)の
考(かんが)へ杉(すぎ)の
みことかな
目醒(めざ)め
がちなる
わが尽忠(じんちゅう)は
俳句(はいく)かな
弟(おとうと)よ
相模(さがみ)は
海(うみ)と
著莪(しゃが)の雨(あめ)
乱世にじて晴れわたる人の木よ
友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
おーいおーい命惜しめといふ山彦
林 桂 (はやし・けい) 1953年、群馬県みなかみ町(旧新治村)生まれ。
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