福島泰樹「故郷は遠くにありて或は亦、石もて追わると抒(の)べし男ら」(佐中由紀枝・福島泰樹画文集『追憶の風景』)・・
佐中由紀枝=画/福島泰樹=文『追憶の風景』(芸術新聞社)、跋は福島泰樹「追憶は白い手袋ふっていた」、それには、
画人佐中由紀枝との長い付合いを思う。
追憶は雲とやなりてなやましく漂う霧の彼方よりくる
文芸季刊雑誌「月光」(彌生書房)を創刊したのは、一九八八年四月だった。菊判変型、二二八頁発行部数五千。表紙画・本文カットを佐中由紀枝が、表紙・本文装幀を間村俊一が担当。贅を尽くした装幀とあいまって月光は話題を呼び、五月には二千部を増刷した。……季刊「月光」は短命に終わったが、中井英夫を特集した九号まで、二五〇点の装画が誌面を飾った。
以後m「躍進」「サットバ」「大法輪」「正論」など私の連載の多くは、画家の挿画によるものだった。「正論」連載は、十年百二十回に及んでいる。わけても忘れられないのは、佐中由紀枝と組んだ「東京新聞」連載「追憶の風景」である。
とあり、佐中由紀枝の「あとがき」の「追憶の花々に寄せて」には、
(前略)「東京新聞」土曜版、福島泰樹連載「追憶の風景」挿画の依頼を受けたのは、大震災のあった年の暮れになってからです。僧職にありながら絶叫歌人とすて全国を飛び廻ってきた歌人が、その人生で出会い、死別した人々を書くという。(中略)
担当の姫野忠氏によれば、紙面掲載の広告がカラーの場合は、挿画もカラーで、モノクロの場合はモノクロになり、どちらになるかは掲載日前日にならないと分からないとのことでした。原稿が入ってから描く時間はニ、三日、追憶というテーマであるなら鉛筆画も捨て難いのですが、すべてをカラーで描くことにしました。描き終わるとバイク便に渡すという、慌ただしい一週間の連載でした。(中略)モザイク作家で、志なかばで斃れた親友鷹野ゆき子の文章を読んだときは涙が止まりませんでした。
とあった。本書には、愚生の知人も多く登場する。その中の、いくつかを挙げておきたい。
「少年 清水昶」
蒼ざめた馬に跨り白髪を風になびかせ駆けゆけよなあ 泰樹
「歌人(うたびと) 塚本邦雄」
レオナルド・ダ・ヴィンチ邦雄嬌羞の 誰かゆくべし獅子王の歌
「蟬王健次も歌 中上健次」
新宿の三光町の暗がりに哭いているのは中上健次
「晩節 加藤郁乎」
大正十二年九月一日そら蒼く低空よりぞ降る蝉の声
「父よ、沖に日は落ち 高柳重信」
絶望の詩型であらば花ならば絶巓(ぜってん)、虹の蒼い向日葵
「反骨無頼の志 村上護」
故郷は遠くにありて或るは亦、石もて追わると抒(の)べし男ら
「慈悲は森羅万象に及び 埴谷雄高」
こみあげてくる沈黙という譬喩の的確ならば顔上げて享(う)く
「純情熱血の酒徒 冨士田元彦」
歳晩の夜に降る雨吹く風の誰恨むなく冨士田元彦
「飢餓の充足 菱川喜夫」
前衛は死なずあかつき雲湧けり悲しからずやまた雲湧けり
「白い塩 辻井喬」
流血に汚れしシャツは脱がんとも掌はひとくれの塩のごとしよ
佐中由紀枝(さなか・ゆきえ) 1941年、東京市牛込区生まれ。
福島泰樹(ふくしま・やすき) 1943年、東京市下谷区生まれ。
★閑話休題・・「けだもののはしくれ~はぐれ者の系譜Vol.1」(於:谷保駅・かけこみ亭)・・
8月3日(日)午後2時半~から、国立谷保のかけこみ亭での、末森英機企画の「けだもののはしくれ~はぐれ者の系譜Vol.1」のライブに出かけた。出演は、ウクレレ格闘家:川田和虎、狂犬バクシーシ(ヒデキ・スエモリ)、ジミ・西山正規・ページ。ゲストに、けものけだもの師:中野真樹子。投げ銭。
末森英機の誕生日は、来たる8月8日(愚生の孫娘と同じ日)というので、打ち上げでは、一足先にケーキが出された。彼は古稀を迎えるらしい。
あと一人、このライブに来たM・河田氏に十年ぶりに出会った(彼はかつて、愚生が委員長を務めた時の全労協全国一般東京労組三多摩地域支部での同志であった)。
撮影・芽夢野うのき「オセロを全部白にして蝉時雨」↑
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