佐藤りえ「我々と我は思つてゐる夏天」(「九重」6号)・・
「九重」6号(発行人 佐藤りえ)、ゲストは岡田由季、作品「消去法」10句とエッセイ「蝶道」。読みどころは、佐藤りえ「むさしの逍遥/その5/旧石川組製糸西洋館・稲荷山公園」、その多くの記述は歌人・石川信雄に費やされている。
(前略)歌人石川信雄の母の生家・石川家はこの入間市豊岡の地で明治から昭和のはじめにかけて県内一位の製糸会社「石川組製糸」を営んでいた。洋館は創業者の幾太郎が迎賓館として大正12年頃に建設したものでる。戦後の一時期GHQに接収され、将校が居住したこともあるが、現在は入間市が所有、内部を見学できる。(中略)
ポオリイのはじめてのてがみは夏のころ今日はあついわと書き出されあり
「シネマ」
歌人石川信雄は、この西洋館を建てた石川組製糸社長・石川幾太郎の末妹りよ(・・)の長男として生まれた。婿入りした信雄の父は福島県の原町(現在の福島県南相馬市)工場長、叔父叔母従兄弟たちがそれぞれ工場を担い、石川組は一時期愛知、三重にも工場を持つ大企業に成長した。信雄少年は原町工場設立のため家族揃って原町に移り、川越中学入学に際し、豊岡に舞い戻った。(中略)川城中学では松本良三に出会い、ともにガリ版刷の機関誌を手がけ、短歌の投稿をはじめる。良三は川越の医家の出で、信雄同様早くから文学を志したが二十七歳で急逝、遺歌集『飛行毛氈』は信雄の手によって編まれた。
森のなかにたほれゐるわれのまはりより茸の類が夜夜に生れる
松本良三『飛行毛氈』
昭和4年、大学は父の厳命により早稲田大学政治経済学部に入学、しかし信雄本人はその気なく、外国文学の講義を受け、映画を見まくった。(中略)
信雄は昭和6年に大学を中退、一時家業に専念する。昭和11年、父急逝の後歌集「シネマ」を発行、文藝春秋社に入社。菊池寛を終生父と慕った。翌年の昭和12年、石川組製糸は解散する。(中略)
どうもこの木の中に歯車やベルトがあってあれらの花花を生産しているらしい
かつて否定した自由律に近い歌もあり、口語を活かした歌もある。信雄自身が「『シネマ』の近代主義。/中国歌の写実的浪漫主義。/戦後歌の浪漫的象徴主義。/然し、それらはすべて私の歌であることに変りがなく」(前掲「短歌随想(一)「宇宙風」の方向)と述べている。自分の変化に自覚的だった。この後、信雄の歌はどんな錬成をみせるはずだったろうか。
晩年信雄は心臓や肝臓を病み、入退院をくり返した。心機一転を期して石神井に居を移した直後の昭和39年、国立豊岡病院の待合室で急逝。前月56歳の誕生日を迎えたばかりだった。歌の続きを知ることはもうできない。
とあった。
西洋館ーイラスト・佐藤りえ↑
ともあれ、以下に、本誌から岡田由季と佐藤りえの歌を各一句挙げておこう。
水深のわからない池源五郎 岡田由季
アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ
朝涼や無用の舟も旅の果 佐藤りえ
撮影・鈴木純一「山梔子やテロルのコツは近くから」↑
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