澤好摩「懐かしき人土佐にあり秋の声」(『澤好摩俳句集成』より)・・
山田耕司編『澤好摩俳句集成』(ふらんす堂)、栞文に小林恭二「自転車を押すや死ぬなら麦の秋」と高山れおな「澤好摩かくかくしかじか」。山田耕司の「あとがき」には、
澤好摩からの最後のメールは、本文がなかった。タイトルには「さわてす」とある。澤さんが危篤状態にあると聞いたのは、その翌日の午後のことだった。
澤好摩は、旅先の米沢で転倒し、その後の手当てもむなしく逝去した。二〇二三年七月七日のことである。山田へのメールは、転倒後に遠のく意識の中で入力したものであったようだ。(中略)
「澤好摩の作品集を作る」澤好摩を偲ぶ会(二〇二三年十一月・東京)の席上で、山田は来訪者の方々に、そう宣言した。
本書は、多くの読者の方々が澤好摩の作品に接することができるようにという願いから生まれたものである、最後のメール、その書かれていない本文の内容を汲み取りながら行動した結果でもある。
とあり、また、沢好摩第一句集『最後の走者』の解説・坪内稔典「沢好摩ノート」の結びには(一九六九・六・十)、
(前略)沢の近作の
春の樹へ寄る 少年の明るい膝小僧
生糸巻く 杏の樹からたそがれ湧き
などを見ると、その抒情構造は、先の作家たちと無縁ではない。この自らの内の尾テイ骨をあきらかにすることは、僕らの時代精神を、近代との対比の中ではっきりさせることであり、内容と形式の総体として〈近代〉を把握する作業は、俳壇にも僕らにも重要な課題である。
第二には、金子兜太、高柳重信、赤尾兜子、飯田龍太など、現代の作家についての徹底的な批判・継承が必要だろう。この点はかつて手記が、草田男などと『青玄』をストレートに結びつけることで欠落させていたことである。
これらの課題は、はっきりしたものであるが、実際の僕らの現実は、不透明であり、課題を設定しようにも困難な状況であるといえる。しかも、沢のいう、詩を書く態度における倫理的意味性の排除と刹那的衝動の否定のあと、僕らを訪れるものについてのいくらかの確信さえも持ち合わせがないことを思うと、言葉の彼方、その沈黙の深みに、僕らは自らを晒してゆかねばならないのだ。沢もまたそのような同時代たることを選んだ。
〈最後の走者〉の彼方、僕らの時代と精神の深遠へ、沢は肉体を下降させてゆくだろう。この一冊の句集とともに。
(一九六九・六・十)
とあった。ともあれ、本集成のなかで、既刊の句集におさめられていない最後の「『返照』以後 二〇一九年一月~二〇二三年七月まで)」の句から、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。
報はれぬ祈りの日々を地震の国 好摩
夏草より墓の二、三が現るる
立つ濤の下は小暗し敏雄の忌
雪山の出でたる月に地球照り
月輪(ぐわちりん)は心の臓とぞ花の夜
左見右見(とみかうみ)波に追はれてゐる千鳥
鳥らみな高きを飛べリ竹の秋
木の橋の流れ橋とも夏薊
師の墓を思はずも撫で暮の秋
短日の湖に残照ありにけり
空を刷く芒に明星あらはれぬ
星空は水にうつらず年のくれ
凍滝の背後に水の音ありぬ
父祖の地は山みな高し鷹渡る
澤好摩(さわ・こうま) 1944年5月22日~2023年7月78日、東京都城東区生まれ。
撮影・中西ひろ美「はなびらの変な感じの痛みかな」↑
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