大井恒行「秋、共生共在(きょうせいきょうざい)すべての武器を楽器にしょ!」(「俳句人」8月号より)・・
「俳句人」8月号(新俳句人連盟)、特集は「平和特集/被爆・戦後八〇年と俳句」。寄稿者各人が5句とエッセイ+「私の口誦する反戦・反核俳句5句」を寄稿。以下にいくつか句とエッセイの部分を紹介したい。
夏の月死者に遅れて上りけり 石 寒太
(前略)核抑止力下の平和論は、ロシアのプーチンによって否定、さらにウクライナ戦争、イスラエルとハマスの軍事衝突。
戦争と平和は、今、新たな形での問い直しがはじまっている。
私たちはそんな新しい時代に立ち合っている。その節目に当たって、自覚をもって俳句をつくらなければならないだろう。
弾丸は蜜蜂となれ蜜もたせ 角谷昌子
(前略)大戦後八十年の現在、世界中から日々戦報が届く。唯一の被爆国である日本は、さらに強く核廃絶と非戦を訴えねばならないと思う。
イスラエルイランアメリカここは旱 小林貴子
(前略)私もくよくよ悩む性格なので、死後に妄執は残ると思う。 もし今世界が亡んだら、私の大切な輝くものたちが失われる。「平和特集」の貴重な『俳句人』八月号も出ないままになってしまう。それはいかにも残念だ。私は妄執を総動員し、自力で『俳句人』を出すだろう。地球という星で俳句という文芸に携わっていたという証のために。
生きおれば明日ある生きよ戦火の子 飯田史朗
(前略)日本においても中国の軍事力強化に対抗し、軍事費を増大させ、更に台湾有事を想定し、沖縄県民の九州地方や、中国地方への避難訓練の計画まで立て、今にも戦争が始まるような雰囲気を作り、軍事費増強を反対できない雰囲気を作っている。これは極めて危険だと思う。戦争を放棄した憲法を擁している日本が戦争に加わることは絶対反対だ。それが戦後の新しい教育を受けた者の役割だと思っている。
風葬も鳥葬もある兵の墓 粥川青猿
(前略)町内の仙美里地区には広大な軍馬補充部があった。ここには1932年ロスアンゼルスオリンピックで「バロン西」と呼ばれた西竹一が、かつて勤務していたことがある。戦地に送られた軍馬は全国で70万頭といわれているが還ってきた馬は一頭もいない。(中略)
硫黄島で戦車隊長を命じられた西竹一は、終戦の半年前に戦死した。
卒寿でも昭和の若葉生きよ生け 和田義盛
(前略)国民学校五年生の私にはその内容はよく聞き取れなかった。(中略)それから現地の解放された喜びの声を毎日毎日聞いた。「マンセイ。マンセイ」の声は昼も夜も響き、大きなうねりとなって伝わって来た。その年の一〇月半ばから引揚が始まった夏休み中の敗戦により学校へは行けなくなっていた。子ども達はそのまま皆とは逢えなくなり地域毎に日時が決められ集合場所へと移された。生まれ育った、街々、路地や店々、幼い頃からの友達等々全てを捨てて、見ず知らずの日本の国へ引き揚げるという事がどうしても判らなかった時にすごく悲しい心になった。親達の世代は日本の生れ故郷へ帰れるが、私達子ども世代は、ここがふるさちであり、もうこの京城には戻れない、「ふるさと」はもうないのだと強く思って引揚げた。
八十路の日課地球の余命に水を打つ 田中千恵子
(前略)引揚船から上陸して汽車に乗り、原爆で焼野原となった広島を通過。私はその時の無惨な光景を目に焼きつけた。と言うと、「ご両親から聞かされたお話ですね」と言われる。いいえ、生後二ヶ月の黄色い赤ン坊の私がこの目で見たのです、と言い張ったこともいあった。やがて私は、赤ン坊が握っていた記憶を俳句にしていった。
被爆レンガのひとつがふいに朝鮮語
わだつみ裸像生きたい陰部が葉鶏頭
ハンセン病
たったいま人間になった掌(て)に青葉
天皇と交換ばらの香のチリ紙
どどどどど沖縄どどどどどどどど
私の俳句の一部は、先の大戦で死にたくなかったのに死んでしまった人たちの、代弁とでも言うべきものかもしれない。
アンケートの最後に「私の口誦する反戦・反核俳句」5句とあり、愚生は以下の5句を挙げた。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
いくさよあるな麦生に金貨天降るとも 中村草田男
白蓮白シャツ彼我ふるがえり内灘へ 古沢太穂
太陽や目にいつぱいの暗い予感(チェルノブイリ) 三橋敏雄
核の冬天知る地知る海ぞ知る 高屋窓秋
撮影・鈴木純一「片陰り右はどうした死んだのか
猛暑 酷暑
危ない暑さ
汗だくだく」↑
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