塚本邦雄「わかものの臀緊れるを抒情詩のきはみにおきて夏あさきかな」(『巨大な夕焼/三島由紀夫の芸術と死』より』・・


 山内由紀人著『巨大な夕焼/三島由紀夫の芸術と死』(河出書房新社)、帯の惹句には、


 三島由紀夫生誕100年!「芸術というのは巨大な夕焼けです。」

 存在のすべてを賭けて〈作品〉とし、自らを芸術に捧げた三島由紀夫のいのちの痕跡


とあり、本書の「まえがき」には、


 本書は。私がニ〇〇〇年から二〇二四年まで二十五年にわたって発表した三島由紀夫論を一冊にまとめたものである。(中略)それは、十六歳の時に〈三島由紀夫〉という筆名で誕生した小説家が、その後三十年近く華々しい創作活動をしたのち、なぜ四十五歳という年齢で自死を選んだのかということいである。しかもその死は、「盾の会」という民兵隊を結成し、その会員四名とともに市ヶ谷駐屯地において蹶起し、バルコニーでの演説後に割腹するという衝撃的な絶命だった。私は、その死に至るまでの、三島の内面で起きた精神のドラマを知りたいと思った。

 そのために、創作のジャンルや作品にこだわらず、三島の生きた時代、その生き方なども大きく視野に入れて論じる方法をとっている。三島由紀夫を小説家というだけでなく、むしろ一人の芸術家として、そのいのちの痕跡を追究したと言いかえてもいい。


とあった。そして「あとがき」には、


 「芸術というのは巨大な夕焼です」という三島の『暁の寺』冒頭に出てくる言葉が、高橋たか子の長編小説『亡命者』の中で「作中で一人の人物に言わせていた言葉」として引用されていることに、私は長く気づかずにいた。(中略)長い間、この二人を重ねて論じるということは思いもしなかったが、二〇二一年より配信された『高橋和巳・高橋たか子全集』(小学館)の、たか子全十二巻の解説・解題を執筆したときに、あらためてたか子が三島に言及している文章にふれ、強く刺激をうけた。いつか三島とたか子という二人の作家をテーマにして書きたいと思うようになった。それが三島の生誕百年・没後五十五年の今、「巨大な夕焼」という言葉に導かれて一冊の論集になったことに、ふしぎな感慨を覚える。それはおそらく書くことの力であり、文芸批評の力なのである。


 とあった。ブログタイトルにした塚本邦雄の短歌は、本書の「三島由紀夫と短歌 塚本邦雄と春日井建」からの引用である。

 ところで、愚生には、山内由紀人とはいくつかの思い出がある。彼に最初に出会ったのは、愚生の勤務先であった弘英堂書店の店頭である。彼は、立風書房の営業マンであった(もちろん、山内由紀夫人という筆名ではなく、本名で・・)。当時、俳人であった宗田安正も立風書房の編集者だった。そのうち、彼は「生きられた自我、高橋たか子論」で群像新人賞の評論部門で優秀作を受賞し、文芸評論家としてデビューをはたした。次に出会うのは、愚生の友人であった岡田博のワイズ出版から、中井英夫『底本 黒衣の短歌史』を出版する際に、彼と二人でその本の下段にレイアウトされた「注」の項目を執筆した。その少し前、山内由紀人は中井英夫の秘書として働いていたように思う。そして、1998年、彼は最初の評論集『三島由紀夫の時間』をワイズ出版から出した。その後、彼には、『三島由紀夫VS司馬遼太郎―—戦後精神と近代』『三島由紀夫、左手に映画』『三島由紀夫の肉体』(いずれも、河出書房新社)から上梓。その映画論に三島由紀夫準主演の『人斬り』があるが、愚生は当時大映太秦でアルバイトをしていて、一度だけ、三島由紀夫に遠目だが会っている(撮影所でラッシュを観るため)。小柄だが眼光鋭い男だった。


 山内由紀人(やまうち・ゆきひと)1952年、東京都生まれ。



       撮影・芽夢野うのき「混沌と五月の太陽隠れたる」↑

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