浜田到「はなひらより櫻散りはじむ人つねに微笑より帰化、さいはてに向き」(『浜田到作品集』)・・

 


『浜田到作品集』(青磁社)、解説の大井学「浜田到―—生涯と作品」には、


  医師にして詩人また歌人であった浜田到(いたる)の作品は、突然訪れた彼の死ののち、歌友・詩友によってそれぞれ一冊ずつの歌集・詩集としてまとめられた。鹿児島で創作を続けた彼の人となりは、中央の歌壇・詩壇にはあまり知られることななかったし、鹿児島においても限られた友人たちとの交流を除いては、特に目立ったものではなかった。むしろ地元の勤務医として静かな生活を送っていたと言ってもいいだろう。到の作品が世に広く知られるようになったのは彼の死後になったが、それは逆に作品の力だけで読者を獲得していったということでもある。(中略)

    1,生涯

 浜田到は、一九一八(大正七)年六月十九日、アメリカ合衆国カルフォルニア州ロスアンゼルス市モニタにおいて、父謙吉・母クニの長男として生まれた。(中略)

 到が中井に認められるようになったのは、角川短歌賞への応募がきっかけだった。「星の鋲」は角川賞への応募作品を「依頼作品」の扱いとして掲載されたものだった。(中略) 

 一九六八(昭和四十三)年四月三十日。到の死は唐突に訪れた。往診先で酒を振る舞われ、帰途、自転車で転倒。深さ一メートルの側溝に落ち、頭の骨を折った。翌朝、新聞配達の少年が儚くなった到を発見したという。(中略)

 到の作品は、短歌・詩いずれにおいても彼が傾倒したライナー・マリア・リルケ(一八七五~一九二六)の影響が見られる。薔薇や少女というモチーフについてもそれを指摘することができるだろうし、何より短歌のエピグラムにリルケの詩句を引用するなど、詩想の連続性を提示している。今後、到=遺太郎の詩が広く読まれるに応じて、詳細に研究されるだろうことを心待ちにしている。


  とあった。ともあれ、本書中より、いくつかの作品を挙げておきたい。


 山のみが〈沈黙〉のあらはなる形もち明るくなるまで溶けつづけゐる   

 石女(うまずめ)のおまへの頬のつめたさにほほそそけつつ一生愛(ひとよを)しまむ

 あきづけば回帰(かへ)りくるべきもののけに吾妻よひしと懸(かか)りし虹か

 横隊に貧しき学徒ら列なせば日本の空が劇的に灼け

 冬天の青さうつれる土の上(へ)を征かざるわれも踏みて別るる 

 空こそ詩にしあればこよひふかく逢ふ鳥もあれ空ふかく逢ふ鳥もあるべし

 寝つかれぬ冬夜のおもひいつしかに亡母(はは)におよびて心さびしも

 年若く妻に倚りにし幸ひの由緒は杳(とほ)く雪ふりてやまず

 わが指のうすき影だに朝風の蟻の心をひとりにするか

 銃音も昏れてしまへるそら夜の鳥をたかきにたもつときさみしからまし


 浜田到(はまだ・いたる) 1918年6月19日~1968年4月30日、享年49.



     撮影・芽夢野うのき「あわあわと花咲き花散る岸の家」↑

コメント

このブログの人気の投稿

田中裕明「雪舟は多く残らず秋蛍」(『田中裕明の百句』より)・・

秦夕美「また雪の闇へくり出す言葉かな」(第4次「豈」通巻67号より)・・

能村登四郎「白椿落ち際の錆まとひそめ」(『俳句のマナー、俳句のスタイル』より)・・