能村登四郎「白椿落ち際の錆まとひそめ」(『俳句のマナー、俳句のスタイル』より)・・


  井上泰至著『俳句のマナー、俳句のスタイル』(本阿弥書店)、帯の惹句には、


 俳句をより高度にし、より深化させる“俳句のマナー“と“俳句のスタイル“

 「俳壇」で好評を博した連載

 「俳句文法 そこが問題、そこがポイント」の一部に加筆し、補説を加えた。

 創作の高みを目指す俳人、俳句愛好家、必携の一冊。


 とあり、表4側の帯には、目次より「デリケートな『かな』」、「切れ字より大切な切れ」、「『の』のさまざま」、「便利な『て』の注意事項」、「昭和俳句の焦点『は』」、「よい字余り、悪い字余り」、「句またがり文体」、「命令形というレトリック」とある。


 また、「はじめに」には、


  俳句のエッセンスとして季語・季題のことはよく言われます。それに比べて、広い意味での「文体(スタイル)」について語られる機会は、そう多くありません。ここでいう「文体」とは、切れ字や切れによって形作られる俳句独自の「構文」や、俳句が「詩」として成立するためのの「調べ」、そしてそれらの焦点となる、「助詞」「助動詞」を含みます。(中略)

 文法を単純な「ルール」とだけ捉えない私の姿勢にも、好意的な評価を頂きました。同じ「俳壇」令和四年三・四月号の「俳壇時評」で、仁平さんが、この連載を取り上げて下さいました。仁平さんは、「俳句文法は法律のようなものではない」という私の立場をさらに先鋭化した論を展開されています。文法違反の取り締まりだけが俳人の務めではない、という仁平さんの論旨には立場を同じくするものです。(中略)

 「補説」は、この現状認識に対する私なりのスタンスを語ったもので、この俳句観に無理に共鳴する必要はありません。俳句の長い「伝統」から推して、俳句とはこう考えられてきた歴史があり、それを背景に「スタイル」や「マナー」が積み重ねられてきたわけです。俳句の「思想」を変え、「スタイル」や「マナー」を根底から相対化するような、そんな「活力」が出てくれば、それは歓迎すべきことだと考えていることは、お断りしておきます。


 とあった。興味のある方は、直接、本書に当たられたい。ここでは、本書中より、句のみになるが、いくつかを紹介しておきたい。


  人入つて門のこりたる暮春かな      芝不器男

  今日何も彼もなにもかも春らしく     稲畑汀子

  物音は一個にひとつ秋はじめ       藤田湘子

  立秋や机の上に何もなし         星野高士

  露けしや我が真言は五七五        西村和子

  颱風が残してゆきし変なもの       櫂未知子

  川床に座布団枕許されよ         小川軽舟

  尾を嚙める天丼の蓋夏越かな       中原道夫

  ためらはず雨の茅の輪をくぐりけり   片山由美子


 井上泰至(いのうえ・やすし) 1961年、京都市生まれ。


      撮影・鈴木純一「常盤なる露のいのちも草のいき」↑

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