石原直温「国のためいしずえきづく石原の石のひとつとわれはゆくなり」(『会津隆吉と青梧堂』より)・・


  清水久子『会津隆吉と青梧堂』(ネコオドル)、その序章の冒頭に、


 古びたえんじ色の、すこし小ぶりな文学全集、そのなかの一冊に「おじいちゃんの写真」が載っている。

 それは、集英社版『日本文学全集』第三十八巻の「横光利一集で、巻末の「作家と作品」という小文に添えられている写真だ。キャプチャには「十日会(句会にて)」とある。十五人の男性が前後二列に並んだ集合写真で、前列の左から三人目が横光利一。そして、前列の一番左にいるのが私の祖父、会津隆吉だ。

 昭和四十一(一九六六)年発行の古い本なので、写真の画質は荒く、正直なところ顔がよくわからない。けれど、祖父の写真が載っているこの本は、祖父が会津隆吉という作家であり横光利一の門人であったことの証として、家族に大切に守り継がれてる。(中略)

 調べてみると、祖父は会津隆吉のまえには三原達夫という名で執筆していたことがわかり、三原達夫名義の作品が次々と見つかった。そして戦時中には宮川マサ子という名で従軍看護婦の小説を書いていたこともわかった。「作家と戦争」について考えさせながら、さらに時代を追っていくうちに、祖父や祖父の家が巻き込まれた「戦争」が目の前にあらわれた。


 とあり、また、著者の「あとがきに代えて」には、


 ようやく一冊にまとまったこの本のなかで、一番多く登場する言葉は間違いなく「わからない」です。どれだけ調べても調べきれず、まだまだわからないことが多すぎる。

 それでも。『北京の宿』しか知らなかった会津隆吉が、名前しか知らなかった『青梧堂』が、名前すら知らなかった三原達夫と宮川マサ子が、以前よりもはっきりと輪郭を持ちはじめています。

 この本を書くにあたって、ひとつだけルールを決めていました。

 私は図書館員。図書館員らしく、レファレンスで勝負する。資料にあたる。取材はしない。

 図書館振興財団が主催する「図書館を使った調べる学習コンクール」でさえ取材して調べることを推奨しているのに、これはいかがなものかと自分でも思うのだけれど、そうとでも決めないと終わらないと思ったのです。戦後八十年、二〇二五年には形にしたいと思っていたたから。


 とあった。そして、本書中の小見出しで「十日会」と「三省堂時代」についての部分に、


 十日会

  横光利一の命名で会津隆吉に改名したこの時期、会津は横光が発起人になり昭和十『一九三五)年にはじまった俳句の会「十日会」のメンバーになっている。冒頭で登場した写真は、この十日会で撮られたものであった。

 十日会については、会の幹事を務めた俳人・石塚友二のエッセイにくわしく書かれている。(中略)

 三省堂時代

 直温が入社した時期はわかっていないけれども、俳人の渡辺白泉が昭和十一年四月入社で、おそらく同期だった。おなじく三省堂社員だった稲垣宏が「渡辺白泉という人」という文章のなかで、直温と渡辺と三人で過ごした日々のことを綴っている。

 三省堂では出版部に入社すると、新人はまず校正課に配属され、仕事の基礎を教え込まれる。直温と白泉は、蒲田にある印刷工場の一室で数か月間、校正の見習い仕事に明け暮れた。仕事が終わると、一年遅れの翌年二月に入社した稲垣宏と三人で、飲んだり麻雀をしたりしていた。(中略)

 昭和十二年五月、同僚の渡辺白泉が俳句同人誌『風』を創刊する。会津は第三号から第五号にかけて、随筆を寄稿している。

 『風』の同人は、渡辺のほかには小澤蘭雨、小澤青柚子、熊倉啓之、櫻井武司。第七号まで発行したが、あらたに『広場』を発行するため、昭和十三年(一九三八)年四月に終刊した。

 ともあった。


               「風」誌のコピー↑

 この『風」については、愚生が、『三橋敏雄全句集』作成のための資料として、夫人・三橋孝子さんからお預かりしたコピーである。その資料の散逸を恐れて、備忘のためにと、本ブログに紹介していた記事をご覧になった本著者・清水久子さんから問い合わせをいただき、そのコピーをお送りしたのだった。失礼ながら、もとより、「會津隆吉」は眼中になく、その人は「風」4号の住所録(昭和12年9月1日現在)のページに記載があった。「風」の選者に高屋窓秋がおり、同人に阿部青鞋、飯島草炎、小澤青柚子、櫻井武司、三橋敏雄、渡邊白泉、渡邊保夫など30名の名があった。愚生が、もし、この以前に、会津隆吉について知っていたら、生前の三橋敏雄、高屋窓秋に、その人の記憶の一片なりとも聞けたかも知れない。とはいえ、このわずかなコピーを手掛かりに、著者・清水久子さんは「風」誌をすべて探索されたのにちがいない。

 ともあれ、本書中の作品を、以下に、少しだが紹介しておきたい。


  空蝉の世と知りながら母を思ふにつけてぬるゝ袖かな   石原直吉

  手の平の茶の花捨てゝ行きにけり            横光利一

  ひゞ赤き女となり夜々ケープ編む       会津隆吉(三原達夫)

  日の丸の御旗たかくかかげつつかちどきあげてかえれふるさと 石原シマ

  たのもしやはえてのし庭のなでしこみくにの花とさかん     〃


 会津隆吉(本名・石原直温) 1911(明治44)年12月15日~1945(昭和20)年6月5日。



  撮影・芽夢野うのき「春ですか冬ですかどちらさまも人類」↑

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