野ざらし延男「黒人街狂女が曳きずる半死の亀」(「現代俳句]4月号より)・・


 「現代俳句」4月号(現代俳句協会)、ブログタイトルにした、野ざらし延男「黒人街狂女が曳きずる半死の亀」の句は、おおしろ建「新現代俳句時評/沖縄の黒人街」の文中のもの。それには、


 (前略)一九六一年頃の作品である。野ざらし氏の第一句集『地球の自転』(一九六七年刊)に掲載されている。「序に代えて」を故・金子兜太氏が書いておられる。

 実に凄惨な句である。差別された街である「黒人街」を、凌辱されたであろう女性が、胸をはだけスカートも脱ぎ捨て、笑い狂った顔で、「半死の亀」を曳きずり歩く。そんなイメージが湧く。だが、野ざらし氏は、「狂女」は基地権力者の象徴である「米軍」だとする。「半死の亀」は米軍の植民地支配に苦しむ沖縄の姿だという。そう考えると掲句はますまし悲惨な情景が浮かぶ。米兵の母国アメリカは「狂女」である。黒人を差別するだけでなく各国の戦場で住民を虐殺する。過重な基地負担に喘ぐ「半死の亀」を曳きずり晒す。亀はおとなしく従順で、沖縄の人々を思い起こさせる。甲羅には日米政府によって背負わされた基地が重く揺れる。


 とある。他の論考では高橋修宏「特集『昭和百年/戦後八十年 今、現代俳句とは何か』/現代俳句のハードコア」も読ませる。


(前略)杭のごとく

    墓

    たちならび

    打ちこまれ        高柳重信  (中略)

 一行目「杭のごとく」という直喩に続く、「墓」、そして「たちならび」、「打ちこまれ」に至って、われわれの目の前に荒涼とした光景のイメージが浮かぶ、この尋常ではない「墓」の景が呼び出すのは、戦場における死者たちの粗末な棒切れのような墓標だ。多行形式のフォルム自体が、恰も戦場での墓標が林立するようにも見えてくる。

 しかし現在、そのような「墓」が、ウクライナやガザをはじめ、世界の紛争地帯に増え続けているのではないか。この多行表記による強度と衝迫力を伴って、まざまざと現在を予見するようなリアリティが現前するようだ。


 そして、巻頭エッセイともいうべき「直線曲線」は、赤野四羽「『兜太と龍太』二巨星の光程」。ともあれ、本誌本号より、いくつかの作品を以下に挙げておこう。


  サイネリア待つということきらきらす      鎌倉佐弓

  九万秒足らずのの一日鼓草          高野ムツオ

  祝婚歌改行し改行し春の山          高山れおな

  あ見たまへ逃げし紋白蝶帰還         五十嵐秀彦

  白壽未だ若し若しと舞う櫻           鱸 久子

  行くさ来さ鯉くぐりける花筏          横山康夫

  かでなふてんまもずく天ぷらは此処       河西志帆

  軍帽の毛羽立ち濡れてそこへ蝶         仲 寒蟬

  何度めかの暮らしがあって春のピザ       外山一機

  腓返り芽吹きやまざる戦火の地        田辺みのる

  外は雪内はあやとりする双子          貴田雄介

  どこかいつも濡れているひと兎飼う       三宅桃子

  陽炎を跨いで永遠の象となる         瀬戸優理子

  三月に流れていった百葉箱          小湊こぎく

  泰然と足長蜂やそよぐ足            中島 進



        撮影・芽夢野うのき「彼岸すぎ畳の淵のたなごころ」↑

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