高山れおな「駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり」(『新しい俳壇をめざして』より)・・


  筑紫磐井著『新しい俳壇をめざして/新世紀俳句時評』(東京四季出版)、帯の惹句には、


 「新しい俳句が生まれなくては、俳句は滅ぶ。」

 無風の俳壇に、新しい風、新しい論を。


  とある。「まえがき」には、


 「俳句四季」で、平成十五年(二〇〇三年)一月から現在まで、約二十年間にわたり、「俳壇観測」と題して俳句時評を連載している。(中略)

 話題は句集・評論集の紹介にとどまらず、多くの俳壇内外の動静を取り上げた。二十年にもわたる時評集成は珍しいことだろうが、長い時間にわたる時評で初めて見えてくるものあると思う。一方で、『21世紀俳句時評』と異なり、震災への対応、令和への改元、コロナの発生など、俳句を超えた多くの社会的事件との関係にも触れたため、時評というよりは随想のようなものになってしまったのは遺憾とするとこりである。寛恕頂きたい。


 とあり、「あとがき」には、


(前略)もう一つは令和五年になってから、現代の俳句史を二十年ぶりに見直す史観の対立が生まれたことである。『昭和俳句史―前衛俳句の~昭和の終焉』(川名大・角川書店)と『戦後俳句史nouveau 1945-2023--三協会統合論』(筑紫磐井・ウエップ)である。前者が戦前の新興俳句を踏まえつつ前衛俳句の記述から昭和末年の記述までで終わっているのに対し、後者が戦後の断絶を踏まえ全戦後史を既述した意味で対蹠的であるが、この時期に、通史的な俳句史は、未来の俳句を考えるためにどうしても必要であると思われる。『昭和俳句史』は平成・令和の俳句史に言及せず、『戦後俳句史』は平成・令和を俳壇史として捉えるという態度をとっている。その意味では、今後の俳句を考える意味で、とりわけ平成・令和の俳句を期間限定的に捉える時評が求められている。その一例として、「昭和九十九年。令和までの俳句史をたどる。」(「俳句四季」連載253「昭和99年の視点で見た歴史」を加えて、本書の締めとしたものである。


 とあった。それら光景は、目次のそれぞれの項目を眺めるだけでも興味深い。いちいちを本ブログでは紹介しきれないので、是非、興味をもたれた方は、直接、本書に当たられたい。ここでは、「星野高士が、戦後生まれ俳人の先頭に躍り出た。……[H26・8]」を少し紹介する。


『残響』(深夜叢書社、二〇一四年)は星野高士の第五句集である。(中略)

  綿虫のよぎる墓標の読みづらく

  天空まで陽炎の先とどく

  立春やちらほらと雪そして雨

 その意味で、この句集により星野高士は、戦後生まれ俳人の頂点の一人となったのではなかと思う。夏石番矢や長谷川櫂、岸本尚毅、小澤實といった顔ぶれに今まではやや遅れて見えた星野(昭和二十七年生まれ)が、先頭集団に躍り出た感があるにである。もはや「ホトトギス」や「玉藻」の星野高士ではなく、言ってみれば飯田龍太が登場してきたときの雰囲気にさえ似ている。


 とあった。ともあれ、本書中に引用された句をいくつか以下に挙げておこう。


  国家よりワタクシ大事さくらんぼ      攝津幸彦

  麿、変?                高山れおな

  春寒の灯を消す思ってます思ってます    池田澄子

  言の葉の非力なれども花便り        西村和子

  ひはとりの怒りて花をふぶかせり     和田耕三郎

  かいつぶり岸に寄るさへあたたかし    対中いづみ

  みちのくのみなとのさくら咲きぬべし    小澤 實

  空高くから雨つぶよあたたかし       小川軽舟

  東国をおもんばかれど春の闇        福本弘明

  ありしことみな陽炎のうへのこと      照井 翠

  松本サリン忌ざりがにの忌なりけり     小林貴子

  あんなところにからうじてつもる雪     野名紅里

  

  身に沁む

  聴雪

  いくそばく

  華厳をめぐり               高原耕治


  永遠は何千年も笑っている         堀田季何

  メーデーに令和の夜明けなどなく      星野高士

  陽炎や人は遠くをいつも恋ひ        星野 椿


 筑紫磐井(つくし・ばんせい) 1950年、東京都生まれ。



       撮影・鈴木純一「麵麭のなる地を略取して報いなし」↑

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