中河与一「夜ふかきやまのいほりにゆめさめてそらわたる月をきゆまでみし」(「『天の夕顔』のかげで」より)・・


  中井三好著『「天の夕顔」のかげでー不二樹浩三郎愛の一生ー』(彩流社)、本書は第一部「『天の夕顔』のモデル不二樹浩三郎、第二部「隠棲」の二部建てになり、その第一章「不二樹浩三郎を求めて」には、


 九十三歳の春を迎えた一人の男が、自分の死期が見えないまま、一九九〇年(平成二年)三月二十六日午後三時、神川県の北の山中にある特別養護老人ホームの志田山ホームで倒れた。(中略)

 男の名前は不二樹幸三郎(ふじきこうざぶろう)と言い、中河与一が1938年(昭和十三年)一月に発表した『天の夕顔』という小説のモデルである。いや、一般にいう小説のモデルという概念以上に、深くこの小説の成り立ちに関わっている男である。

 筆者は、不二樹浩三郎が倒れる十二年前の夏、彼が一九三九年(昭和十年)から二冬(ふたふゆ)、恋に苦悩して隠棲していたという岐阜県の山之村を取材するために、富山県側から国道四一号線をおんぼろ自家用車で登り、奥飛騨の岐阜県吉城郡神岡町まで行き、町の雑貨店に入って、六十がらみの女主人に道を尋ねた。


 とあり、巻末には、


(前略)「『天の夕顔』は自分自身以外の何ものでもない。ゲーテもミュッセもない。文中のゲーテの詩も自分が教えたものである。中河与一がモデルを公表しないばかっかりに、学者の柳田国男までが、民俗学の立場に立って、『天の南瓜』という随筆まで書いている。『天の夕顔』は他国の民話から採ったものでもなんでもない。まぎれもない不二樹浩三郎の恋の半生に他ならない。学者まで欺いた行為は許されない。文学界がまるで攪乱されているではないか」(中略)

 不二樹浩三郎は慕い通した姉不二樹文子の元へ走り逝く時がいつ来るか、その日がまったく見えないまま悶々とした日々を過ごして、そのまま九十三歳の生涯を閉じた。

 そして、不二樹浩三郎は生涯女神のごとく慕い通した姉文子の待つ、永遠の墓碑の体内の中へと入っていった。


 とある。ブログタイトルにした、大和田峠の文学碑にある短歌は、書き直すと「夜深き山の庵(いおり)に夢さめて空渡る月を消ゆるまで見し 中河与一」となるのだそうだが、此の短歌は『天の夕顔』の文中には出て来ない、という。つまり、「『天の夕顔』の文中にない短歌が、突然『天の夕顔』の短歌として文学碑に彫り込まれている」と本書の著者・中井三好は指摘している。


 中井三好(なかい・みよし) 昭和12年、富山県生まれ。



               村井康司氏↑

★閑話休題・・村井康司 連続レクチャー「時空を超えるジャズ史」(於:四ッ谷いーぐる)・・


 一昨日、2月22日(土)は、村井康司連続レクチャー「時空を超えるジャズ」(於:四ッ谷いーぐる)第10回・最終回だった。愚生は、たまにその時間がとれたときに、村井康司に会えるのを楽しみに数回でかけた。いつも、紅茶を飲んで、いい加減な聞き方して、夕食を食べて帰った。のんびりさせてもらっていただけのことかも知れない。良い時間を過ごさせてもらった。


      撮影・中西ひろ美「佐保姫の通りて行きし春の壁」↑

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