阿部完市「ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん」(『俳句以後の世界』より)・・


 宇井十間著『俳句以後の世界』(ふらんす堂)、その「フォルムと語り―ー序にかえて」の中に、


 「俳句」とは偶発的何かでしかないが、同時に一つのフォルムであるだろう。本書はこの偶発性とフォルムをめぐる種々の考察である。長いようでしかし短い定型詩の歴史の中で、フォルムと歴史的実在は、いつも合わせ鏡のように表裏をなしている。フォルムとは、一方で「俳句は俳句である」という自同律の主張であり、他方でしかしその俳句そのものの偶発性を反映する何かである。(中略)

 俳句とは一面で一つのフォルムであるが、同時に一つの出来事であり、多くの作り手はその事を忘れている。換言すれば、それは制度であると同時に生活である。兜太において韻律の一様性と多様性は、この両面を映す鏡である。(中略)

 端的に言えば、本書はフォルムという可能性と不可能とその究極的な不可能性についての著作である。俳句という偶発的な何かは、確かに一面で明確なフォルムであり、リゴラスな形式であるものの、その内実は、語りの不安定さや多様さとともに歴史の中で必然的に動揺していくはずである。それ故、兜太が当時微弱かに予感していた未来は、すでに我々にとって思いの外確かな実体を持っているのである。


 とある。本書は、大きく「Ⅰ 俳句と俳句以後」、「Ⅱ 多言語化する俳句」の二章から成っている。ここでは到底紹介しきれないので、興味ある方は、直接、本書に当たられたい。ともあれ「歌謡と戯れ―ー阿部完市論」の部分を以下に挙げておきたい。


 (前略)つまり、阿部完市は、その論と作品の両面において、概念化され、馴化された意味性としての現在を一度解体して,そこにひとつの生成を発見し、それを俳句の言葉の上に表現しようとして格闘しているという事である。俳句形式においてそのような実験を試みた事が、阿部完市の理論的な面での新しさであり、また当時の事情を鑑みればそれはひとつの発明、発見でさえあった。もっというならば、その類いまれな韻律感覚なしには、阿部完市作品といえども、単なる(・・・)「前衛」、単なる(・・・)「難解俳句」4にすぎなくなってしまうのである。(中略)

 阿部完市は、むろん(さまざまな理由で)暗喩という方法をあまり信用していないだろうが、それでもシュルレアリズムが暗喩においてめざしていたものを、もっと別の方法で探求しているようにもみえる。シュルレアリズムも一面で、阿部完市のいう「今までにない今」を追求する運動であった事は確かであろう。(中略)阿部完市俳句の「謡う」文体は、その意味で、シュルレアリズム的である以上に、シュルレアリズムに対する批判である。別の見方をすれば、フランスシュルレアリズムがその詩的実践において概念化していくそうした「今」の流動性を、阿部完市はむしろ非概念化、身体化していくと言ってもよいだろう。

 つまり言いかえると、シュルレアリズムにおける多くの実験は、意味としての現在から必ずしも完全には自由ではなかったという事である。


 以下には、本書に登場したいくつかの句を挙げておこう。


  木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど   阿部完市

  新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末        三橋敏雄

  夜の蟻迷へるものは弧を描く        中村草田男

  死近しとげらげら梅に笑ひけり        永田耕衣

  春の月水の音して上りけり         正木ゆう子

  コンビニのおでんが好きで星きれい      神野紗希

  光と影の境に剣ずらりと剣          夏石番矢

  風を嚙む波のたてがみ冬銀河         秋尾 敏

  啄木鳥やこころの空の水たまり        湊 圭史


 宇井十間(うい・とげん) 1969年生まれ。



     撮影・芽夢野うのき「しらしらと降る白い冬のひかり」↑

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