村上千秋「一茶忌やかなしき句をばひろひ読む(40年11月)」(『猫を棄てる』より)・・
村上春樹著・高妍 絵『猫を捨てる/父親について語るとき』( 文春文庫)、初出は「文藝春秋」2019年6月号とあり、中身を読んで愚生は、当時、発売されたばかりの雑誌で読んだことを思いだした。それは村上春樹やその父の物語に興味があった、というよりは、村上春樹の父が生れた京都粟田口の「安養寺」のことが書かれていたからだ。
愚生は、京都に18歳から21歳の3年間を京都で過ごした。その折に、今は亡き、俳人・さとう野火(「立命俳句」の創設者)と、その夫人・城貴代美に連れられて、その寺にゆき村上四明の句会に参加した。どんな句を出したかは記憶にない。ただ寺の縁側から眺めた山の景色をなんとなく覚えている程度だ。後に知ったのだが、その句会は、さとう野火の師事した山口草堂の「南風」の句会だったようだ。城貴代美は鷲谷菜七子のファンだった。思えば、愚生は、さとう野火に出会わなければ、俳句を続けていたかどうかは分からない。その縁かどうかは不明だが、「京鹿子」傘下の句会にも行ったことがある。
愚生は18歳で故郷山口を出てからは、ほとんど帰郷せず、年末年始には野火さん宅でご飯を食べさせていただいたり、ある時は風呂を使わせてもらったこともある。随分と世話になったのだ。家のあった場所は、鴨川から二筋くらい入った路地だったが(何度行っても道に迷った)、目の前の家が保守派の論客で、著名だった京大教授の会田雄次邸だった。
絵・高妍↑
本書『猫を棄てる』で村上春樹は、以下のように記している。
(前略)父は京都市左京区粟田口にある「安養寺(あんようじ)」という浄土宗のお寺の次男として、大正6年(1917年)12月1日に生を受けた。おそらくは不運としかいいようのない世代だ。物心ついたときには、束の間の平和な時代、大正デモクラシーは既に終わりを告げ、昭和のどんよりと暗い経済不況へ、そして、やがて始まる泥沼の対中戦争、悲劇的な第二次世界大戦へと巻き込まれていく、そして戦後の巨大な混乱と貧困を、懸命に必死に生き延びていかなくてはならなかった。(中略)
安養寺は檀家を四、五百軒は持つ、京都としてはかなり大きなお寺だから、なかなかの出世と言ってかまわないだろう。
高濱虚子がこの寺を訪れたときに詠んだ句に
「山門のぺんぺん草や安養寺」
というのである。(中略)
父の俳句の師であった俳人鈴鹿野風呂(のぶろ)氏(1887-1971) 高濱虚子に学んだ、「ホトトギス」同人。京都に「野風呂記念館」がある)の「俳諧日誌」の1941年9月30日の項にこのような記述がある。
〈戻りには、又降る雨にぬかるみを踏む(中略)。戻れば千秋軍事公用とのこと。
をのこわれ二たび御盾に国の秋 千秋〉
「軍事公用」とは招集通知郵便を受け取ったということだろう。(中略)
母の語るところによれば、若い頃の父の生活はかなり荒れていたということだ。(中略)
ちなみに母も教師としてはけっこうゆうしゅうであったらしく、僕を産んで専業主婦になtってからも、昔の教え子たち(といっても母とあまり年齢は変わらないのだが)よくうちに遊びに来ていた。僕自身はなぜかあまり教師には向いていないようだが。(中略)
父とようやく顔を合わせて話をしたのは、彼が亡くなる少し前のことだった、そのとき僕は六十歳近くになって、父は九十歳を迎えていた、
ともあれ、本書中より、村上千秋の句を拾っておこう。
鳥渡るあああの先に故国(くに)がある 千秋
兵にして僧なり月に合掌(がっしょう)す
鹿寄せて唄ひてヒトラーユーゲント (40年10月)
村上春樹(むらかみ・はるき) 1949年、京都市生まれ。
高妍(ガォイェン) 1996年、台湾・台北生まれ。
撮影・中西ひろみ「あらたまの待つは松とて初詣」↑
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