放哉「一日物云はず蝶の影さす」(河本緑石『改訂復刻版 大空放哉傳』より)・・


  河本緑石『改訂復刻版 大空放哉傳/荻原井泉水序並閲付/香風閣版(昭和十年四月七日発行』(河本緑石研究会)。巻末の「『ふらここ叢書 河本緑石作品集5』発行にあたって」には、


 河本緑石生誕百十年を機会に、「河本緑石研究会」が発足しました。研究会では緑石の作品を多くの人たちに観賞していただけるように、また緑石の研究がすすんでいくことを願って、作品集を順次発行しています。(中略)

 この度の復刻に当たり資料としての意味も含めて付録として掲載しました。併せて、緑石がこの放哉論を書くに当たって小豆島を訪れた折のことを書いた紀行文も掲載しています。並行してお読みいただければと思います。


とあり、本書の奥付けにには、

 1300円/2011年(平成23年)3月31日発行

 編集者 押本昌幸/波田野頌二郎

 発行者 河本緑石研究会 682-0836 鳥取県倉吉市長坂新町1162 波田野方

とある。本書の序は、荻原井泉水。その中に、


 彼は須磨寺にいた。最後は讃岐小豆島土庄町南郷庵の堂守として住んだ。そこで病気になり、

   咳をしてもひとり

 一人で咳をして一人で死んだ。彼の俳名は放哉。本名は尾崎秀雄。鳥取市の人。明治四十一年度の東京帝国大学法科出身である。


 とあった。また、「後記」には、


 さて、此書を読み了えた諸君に、即ち放哉に就て、著者、河本緑石の話を聴かれたであろう諸君に対して、私は改めて、緑石に就て語らなくてはならない。緑石も亦、今は亡き人だからである。(中略)

 かれ(・・)は放哉をして其純情と童心とを語っているが、緑石自身がまた稀にみる純情と童心との人であった。(中略)

 昼ちかくの頃、沖で水泳中の教官が危険信号をしているのをいち早く見てとった緑石は、人々が舟を出そうとするのを待たずに、水泳にはかなり自信があった為でもあろうが、単身、抜き手をきって其救助に赴いた。その途中、心臓麻痺をもってかれ(・・)は斃れたのだと云う。かれ(・・)の不時の死ということは、如何にも悲しいことではあるが、義と勇とに依て命をおとしたということは如何にもかれ(・・)らしい最期であったとも云えよう。(中略)墓碑には—「緑石院大嶽義行居士」とあった。緑石(○○)は彼の号、大嶽(○○)とは大山に因んだもので、大山は鳥取の名山であり、彼が私と同行するのを楽しみにしつつ歿したことを思って私が選んだ字、義行はかれの本名からとったのである。行年、三十七である。

 かれ(・・)が不時の死に遭う少し前、かれ(・・)は放哉を伝したる一書を作ったからと云って、其原稿を私の手許に送ってきた。


 とあった。また、河本緑石の自序「桃の咲くところー自序に代えて」の末尾に、以下の三句が添えられている。


     源太夫山

  山櫻さいてここから上は墓ばかり      緑石

     慈姑田

  山を近く椿落ちてゐる塀外         同

     放哉生家

  二もとは桃咲いてその跡に住む人      同


 ともあれ、以下に、本書中より、放哉の句をいくつかあげておこう。


  炭切る小僧と垣の野菊にうすき陽のあり    放哉  

  何もかも死に盡したる野面にて我が足音

  つくづく淋しい我が影よ動かして見る

  漬物桶に鹽ふれと母は産んだか

  こんなよい月を一人で見て寝る

  春の山のうしろから烟が出だした


 河本緑石(かわもと・ろくせき) 1897年3月21日~1933年7月18日、鳥取県東伯郡、現在の倉吉市生まれ。

  


        撮影・芽夢野うのき「歌いたり寒星仰ぎ叱られて」↑

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