久保純夫「真空の次の音くる添水かな」(「儒艮」50号)・・
「儒艮」50号(儒艮の会)、 特集は、久保純夫大第15句集『季語情況論』(発行 儒艮の会・発売 小さ子社)にかかわるもの。岡田耕治「わたしの好きな久保純夫の五〇句」。論考に妹尾健「風土記にむかって―ー久保純夫句集『季語情況論』に寄せて」、田中信克「ー久保純夫への手紙 記憶の展開がたどる風土記の姿ー」、『季語情況論』の30句選は江田浩司・西躰かずよし・杉浦圭祐・中嶋飛鳥・依田仁美・森澤程・横井来季・藤田俊・伊藤蕃果・土井探花・上森敦代・原知子・堀田季何・相田えぬ。その堀田季何のコメントには、
もっと久保純夫が読まれるにはどうしたらよいのか、もっと久保純夫が語られるにはどうしたらよいのか。もっともっと読まれて、語られて欲しい久保純夫。もっともっと久保純夫久保純夫。季語は約束事もしくは虚構ならば、久保純夫はその対極にある。有季は例外なく無季で、無季は例外なく有季、久保純夫こそ勇気である。
とあった。このことに関連するように、妹尾健は「風土記にむかって」で語っている。
(前略)このところだけみると有季即無季といったはなはだ即時的な解釈にうけとられかねないと思う。正確に言えば有季ー(状況。情況)ー無季であって、これは無季ー(状況・情況)ー有季ということになる。これを即自とみると有季=無季ということになってしまうのではあるまいか。(中略)この場合六林男のいう情況とは全面的な事象の肯定ではなくて、有季も無季もともに、虚構だということであろう。情況論はここで有季無季のこちたき判別を越えて、虚構の世界(これを古来から、空とか無とかいってきた)が出現する。久保純夫の解釈はこうした世界観にささえられていると私は思う。
ともあれ、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。
千年を螺鈿の小鳥冬うらら 金山桜子
セーターをキリンに着せる打ち合わせ 木村オサム
眠りから覚めてまづ飲む九月かな 伊藤蕃果
恋猫を好き放題に弄ぶ 曽根 毅
ボタンホールに小指刺し入れ十三夜 近江満里子
山彦の住み継ぐ社木の実降る 上森敦代
転生の少し早まる冬帽子 亘 航希
車止め並ぶ向こうの虫時雨 志村宣子
まほろばの無人の駅にひとしぐれ 妹尾 健
冬帽子yutubeから来た男 原 知子
すこしだけ脳の傾く二重虹 相田えぬ
死せる翅掃きて晩夏のビバリウム 古田 秀
撮影・中西ひろ美「落葉舞う年の峠をゆっくりと」↑
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