虚子「去年今年貫く棒のごときもの」(坪内稔典著『高浜虚子』より)・・

 

坪内稔典著『高浜虚子』(ミネルヴァ書房)、その帯に、


 余は平凡が好きだ/世間並であることの楽しみとは。

 俳句と小説、多彩な文業を軽やかに。


 とある。ブログタイトルにした句「去年今年貫く棒のごときもの」について、最終章の「第十章 老艶」に以下のように記している。


(前略)この句を愛誦する人は多いが、端的にいってどこがいいのか、よく分からない。(中略)もっとも、「棒」が意味するのは何か、これがボクには分かりにくい。ゲバ棒という棒が学生時代にあったことは思い出すが、まさかゲバ棒ではあるまい。(中略)

 ボクは先の『老いの俳句』でこの句を「一九五〇年、七十六歳の虚子が詠んだ大月並み句、駄作中の駄作だ」と評している。月並み句とは平凡、陳腐な句(駄作)だが、この虚子の句は季語が含有している意味をなぞっただけの平凡な句と判断した。ただ、そういう駄作はしばしば超有名になる。「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」(千代女)は、朝顔が絡まってつがつかえなくなったので貰い水をした、というのだが、朝顔に気をつかったところは通俗的な配慮、なんだか見えすいている。だから月並みで駄作だが、でも、その分かりやすい配慮がうけて超有名になっている。駄作もしばしば傑作になるのだ、俳句では。

 整理しよう。「爛々と昼の星見え菌生え」は俳句の表現として傑作、「去年今年貫く棒のごときもの」は駄作中の駄作であることで傑作になっている。



 

 そして、「あとがき」の中に、


 選句が日常の仕事であって、俳句を作ることよりも選句に比重が置かれていたのではないか。俳句はおもに句会とか吟行で作られていて、それは「日常の仕事」になっていな印象だ。こうした印象だからと言って虚子を非難するわけではない。俳句はしばしば瞬間的に出来る。その瞬間の創作を虚子は句会で行っていた。瞬間には考える間がないが、そのことが突発的に意外性や奔放さを俳句にもたらす。ボクの好きな虚子の俳句はそうした意外性や奔放性を帯びた句である。具体的に言えば、

  爛々と昼の星見え菌生え

  昼寝する我と逆さに蠅叩

 などの句だ。


 とあった。ともあれ、本書中より、いくつかの句を挙げておこう。


  流れ行く大根の葉の早さかな      虚子

  川を見るバナナの皮は手より落ち

  遠山に日の当たりたる枯野かな

  桐一葉日当りながら落ちにけり

  春水をたゝけばいたく窪むなり

  桃咲くや足なげ出して針仕事


 高浜虚子(たかはま・きょし) 1874(明治7)年2月22日~1959(昭和34)年4月1日。享年85.愛媛県温泉郡(現・松山市湊町)生まれ。

 坪内稔典(つぼうち・ねんてん) 1944年、愛媛県生まれ。


         撮影・芽夢野うのき「落葉燦燦息整えているように」↑

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