永田耕衣「老漢初源(しょげん)卓絶這(こ)の産毛(うぶげ)」(「大野一雄/赤レンガ倉庫舞踏公演『御殿、空を飛ぶ。』/會記」より)・・


  「大野一雄/赤レンガ倉庫舞踏公演『御殿、空を飛ぶ。』會記」1993年4月3日(土)・4日(日)(主催 PAW YOKOHANA 大野一雄舞踏研究所 YOKOHAMA ART21実行委員会 横浜市)。愚生が本棚の隙間より除く封筒を、とりだしたら、その中に、すっかり忘れ去っていた、このリーフレット(上掲写真)と、「俳句空間」第16号(弘栄堂書店)の特集「いまどきの季語入門」と題した折の、永田耕衣の原稿「霊機汎汎ー季霊超克之覚書ー」が一緒に出て来た(本ブログ下部に掲載した写真)。記憶力の悪い愚生も、おぼろげながら、そういえば…‥と少しは思い出した。愚生が一人占めにしてもったいないので、処分、あるいは散逸前に、本ブログに書いておいて、何かの奇縁になればよいと思ったのだ。そのリーフレットにはさらに、辻惟雄(東京大学文学部教授)の栞文も挟まれていた。その中に、


 大野一雄さんは、ふだんは、おだやかで素朴な、小柄のお年寄りにすぎない。86歳という年齢よりも10,いや20は若く見えるにしても……。

 それが舞台に立つと、どうしてあのような、不思議な存在となるのだろうか。その動作が、観客のすべてに、わけもなく涙をさそうのか、感傷でもなく悲哀でもない、なにかもっと深い淵から滲み出てくるような涙を…‥。(中略)

 蕭白の「柳下鬼女図」に描かれた鬼女の顔や指つきを、食い入るように見入る大野さんの眼を通過して、蕭白の狂気が大野さんの狂気へ乗り移り、充電を行っているのがわかる。

今回の大きな舞台で、それがどのようにあらわれるだろうか…‥。


 とあった。





 ところで、「俳句空間」第16号(1991年3月15日刊)の特集「いまどきの季語入門」の編集後記には、


 〇特集「いまどきの季語入門」。季語とは何か?俳句形式にとってそれは否定されるべきものであろうか、それとも、前提として存るものであろうか。いずれも早急には判定し難い。ここでは、季語の歴史、季語と暦の関係、あるいは俳人以外から眺めた季語はどのように映じているかなど、様々の視点から季語そのものに肉迫していただいた。とりあえずは季語についての共通認識を深める一助になればよいと思う。


 とある。参考までに執筆陣の目次を挙げておこう。復本一郎「季題詠としての発句」、浅沼璞「俳諧と季語」、山下一海「俳諧本意の成立と季語について」、阿部鬼九男「季語を超える試み」、江里昭彦「俳句のバロック」。内田美紗「自然体がいいみたい」、久保純夫「現代の無季秀句」、前川剛「有季と無季」、中村重雅「仮構としての季語」、辻田克巳「季感について」、永田耕衣「霊気汎汎」、吉村一志「こんにちは歳時記」、深谷雄大「土着の思想、土着の季語」、高野ムツオ「東北地方と季語」、辻本雄一「『熊野大学俳句部会』報告」、田川紀久雄「詩人にとって『季語』とは『気語(きのことば)』である」、三枝昂之「甘納豆とかたつむり」、阿久根末忠「季語と季節・暦」



              鈴木純一「崑崙の縁を辿ってキハ一輌」↑

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