澤田和弥「海霧やがて命となりて死となりて」(『澤田和弥句文集』より)・・



『澤田和弥句文集』(東京四季出版)、渡部有紀子の「あとがき」に、


  澤田和弥さんは平成二十七年(二〇一五)五月九日に三十五歳の若さでこの世を去りました。平成二十四年(二〇一二)に第六回天為新人賞、平成二十六年(二〇一四)に第一回俳人協会新鋭評論賞準賞と、俳壇での評価を得はじめていた矢先のことでした。(中略)

 澤田和弥さんという若き俳人がいたことを忘れないでほしいという気持ちが一致し、この度、村上鞆彦さん、杉原祐之さん、前北かおるさんといった、かつて和弥さんと学生俳句会で切磋琢磨した方々と共に、句文集を編集するにいたりました。

 「早大俳研」「天為」「若狭」「のいず」『革命前夜』、また「週刊俳句」などのWebサイトに発表していた俳句作品や随筆・評論、各賞への応募作品のうち公開されているものを収録しました。初学より年数を重ねる中で展開していった和弥さんの俳句の軌跡を確認していただきたく、二十代の作品の中には『革命前夜』と重複する句もありましたが、敢えてそのまま掲載しました。


 とある。また、跋文というべきに髙栁克弘「みかんのうた」、それには、


 澤田和弥くんとは、浜松北高校時代からの友人である。そこから同じ早稲田大学文学部に入ったので、一年生の春には、いっしょにサークル探しをしようということになった。(中略)

 澤田くんがいなかったら、私は俳句をはじめていなかったと思う。一生をかけるに値する文芸に導いてくれたこと、感謝の念は尽きることがない。(中略)

 ラーメンが好きだったのも、よく覚えている。ラーメン屋の立て直しを描いた伊丹十三監督の映画『タンポポ』が、すごく感動するから観てみろといわれて、観てみたら本当に感動した。文芸や芸術に造詣が深くて、私は彼の審美眼を信じていた。

 お酒も、カラオケも好きだった。どういうメンバーだったか忘れてしまったが、四、五人でいっしょにカラオケにいったときに、彼はSEX MACHINEGUNSの「みかんのうた」を選曲した。あれは愛媛みかんの歌なのだが、同じくみかんで有名な浜松市出身の澤田くんは、なにか歌詞に共感するものがあったのだろう。(中略)

 陰気で内省的な私とは違って、澤田くんはエネルギッシュで、開放的で、人というものが好きな人だった。本人が、自分の事をどう思っていたのかは、わからない。(中略)学生時代、この世界が「生きるに値しない」と考えていた私だったが、彼の善性に触れるたびにいつも、「生きるに値する」と思わせてくれた。


 とあった。


 愚生は澤田和弥に二度ほど会っているが、はっきり覚えているのは、愚生が、文學の森「俳句界」に居た時、高田馬場にあった編集部に訪ねて来たときである(10年以上前のことだ)。そして、澤田和弥は「豈」57号(2015年4月刊)の特集「俳句の歴史/③リアルでホットな俳句」に、「現在という二十世紀」と題して寄稿してくれている。その特集には、他に網野月を、小野裕三、黒岩徳将、堀田季何、堀下翔、西村麒麟と若き俳人が執筆してくれた。愚生は本文集において澤田和弥が「若狭」に所属していたことを初めて知った。主宰の遠藤若狭男もまた、寺山修司を愛して倦むことを知らなかったから、たぶん、寺山繋がりだったのだろう。ともあれ、本集より、句集『革命前夜』を除いた後半部分から、愚生好みに偏するが。いくつかの句を挙げておきたい。


  革命が死語になりゆく修司の忌         和弥

  修司忌や切れたるままの糸電話

  晩夏バラモンばらばらとバカボン忌

  どの脚も死者のものなる百足かな

  吾も亦鬱王の民寒の雪

  革命前夜たんぽぽは地に低し

  立夏さて殺むるものを探さねば

  手袋の手の入りしまま落ちてゐる

  一戦必勝真白なる夏怒濤

  春愁や溢れるものはみな崩れ

  テーブルの上のキャベツと夜を怯え

  はつなつやわが空中に鬱の檻

  多喜二忌や革命の灯は遠き国

  白日傘白きままに遺さるる

  花の夜のいとしづかなる死産かな

  はなですから死んでしまつてよいさうです

  生くる子が首吊る子へとなりし冬

  蛙にもなれぬ蛙の子が溺る


 澤田和弥(さわだ・かずや)1980~2015年5月9日死去、享年36。浜松市生まれ。



      撮影・中西ひろ美「木犀の香り塞きとめられもせで」↑

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