高柳重信「きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり」(「俳句界」11月号より)・・


 「俳句界」11月号(文學の森)、特集は「俳句の『物語性』と「俳壇タイムスリップ」。第一特集の巻頭総論に堀切克洋「季語による復讐劇」。それには、


 俳句の「物語性」という主題について考えてみると、その主役はどうやら作者ではなく読者であることに気づかされる。小説と比べればもちろん、詩や短歌に比べてみても極端に短いこの詩型においては、作者が何らかのストーリーを生み出したいから俳句を書くということはたぶんない。ある俳句を前にしたとき、読者が「物語り」たくなることで、物語り的な俳句となると考えるほうが自然だろう。つまり俳句の物語性は、句の読みの実践の一面であるということだ。 (中略)

 繰り返しになるが、「わからないこと」をわかりたいという思う不安感が、「物語」への欲望を掻き立てる。

  からだからあやめへ靡く雨の昼    鳥居真里子

 これも相当に不安な句である。初夏、傘をさして外を歩いている「からだ」が、「あやめ」を乞うように近づいてしまう。肉体も平面的でうすうすした存在に変貌してしまったかのよういだ。このような感覚的な句を前にしたとき、読者の「わかる」は無根拠であり無能力である。だからこそ尊い。


 とあった。本特集の他の執筆陣は「私が選ぶ『物語性』のある俳句」には西村麒麟「輝く君へ」、瀬間陽子「『ふしぎ』を生きていくために」、「『物語』を意識して詠んだ句」に金子敦、堀本裕樹、髙柳克弘、佐藤文香。

 もう一つの特集「俳壇タイムスリップ~あの日あの時あの場所で」の論考には、小野あらた「1930年 初の女性主宰誌『玉藻』誕生!」、伊丹啓子「1934年 日野草城『ミヤコ・ホテル』論争」、栗林浩「1940~43年 新興俳句弾圧事件」、田島健一「1946年 桑原武夫『第二芸術』論の衝撃」、蜂谷一人「1984年 俳句、テレビへ進出」、関悦史「2011年 3・11東日本大震災」。 

 ともあれ、以下に、本誌本号より、いくつかの句を挙げておこう。


  父の指触れし白桃憎みけり      行方克巳

  時雨雲たり黒々と沖に寄せ      本井 英

  鬼の手を見せむと誘ふ焚火かな    中西夕紀

  雲中の月のごとくに猫抱かれ    中西ひろ美

  秋麗の彼岸をたれか漕ぎ出でる   つはこ江津

  野葡萄や身を飾るもの持たず来て   川上良子

  イエス様を仰げばわれも裸    マブソン青眼

  詩の本の箱絵本の箱や木の実降る   町田無鹿

  雨上がりにらめっこする虹とぼく   松本岳大(小学6年)

  にんげんを忘れて蟻の列にいる    松岡耕作

  炙られてぺろり剥かるる暑さかな   井口時男 



    撮影・芽夢野うのき「この街のこんなところに金木犀」↑  

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