津高房子「空蝉と聞く折鶴の万のこゑ」(『霞草双手に抱けば』)・・


  津高房子遺句集『霞草双手に抱けば』(角川書店)、装画は嘉納希代子。巻末に「付記」がある。それには、


 著者、津高房子は句集の完成を待たずに去る六月三十日、九十歳で亡くなりました。

 句集を手渡すことはできませんでしたが、小川軽舟主宰からいただいた御序文に感動し、表紙のイメージにも喜ぶ母の姿を見ることができました。

 私たちとしては、少しだけ親孝行ができたのではないかと思っております。

                                津髙里永子

                                嘉納希代子


 とあった。また、序の小川軽舟の中に、


 津高房子さんが「鷹」に作品を投じたのは、平成四年から平成二十六年までの足掛け二十三年。そのうち十三年ほどを藤田湘子に師事し、続く十年ほどは私の選を受けながら句作に励んだ。

 湘子先生が亡くなり、私が後を継いだばかりの頃、房子さんの次の句が私の目を引き、選評に取り上げた。

  消火器の夕日移れり涅槃寺

 心情を前に出して詠うことの多い房子さんにしては、素気ないほど即物的だ。(中略)

  ひぐらしの森白髪となりて出づ

 この句を詠んだ翌年、房子さんは「鷹」を離れた。生まれ育った西宮に帰ったことは、娘の津髙里永子さんから聞いた。

 それぞれにやむを得ない事情があるのは解っていても、仲間が去るのは寂しいことである。ひぐらしの句は、房子さんの別れの挨拶のような気がして心に残った。ところが、それから十年も経って、房子さんは句集をまとめることを思い立った。「鷹」で俳句に打ち込んだ年月が房子さんの人生にとってかけがえのないものだと思えるからこそのことだろう。そのことが私には何よりうれしい。


 とある。そして、著者「あとがき」には、


 俳句をやめてちょうど十年が経ちました。「雲母」を四十年欠詠なしで継続したのが自慢だった兄も、若い時に「風」に所属して晩年「陸」で作句を再開した連れ合いも亡くなってからの精進でした。「未来図」の鍵和田秞子先生に手ほどきを受け、もっと上手になりたいと思って入った朝日カルチャーセンターの講座で藤田湘子先生を知り、俳句の魅力に取りつかれていきました。

 骨折して思うように歩けなくなり、出掛けるのも億劫になって、すっかり俳句から遠ざかっていた毎日でしたが、去年の十月、とつぜん、夢に両先生が現れ、なぜか、句集を作ろうと決心してしまったのです。ながらく俳句に親しんでいる長女に句の収集から選ぶことまでしてもらい、関西水彩画会々員の次女には表紙絵を描いてもらいました。(中略)

 句集名は〈霞草双手に抱けばわれも美女〉から採りました。湘子先生が「本人がそう言っているんだから、まあ、認めざるを得ないなあ」と、その場を笑わせながら採ってくださった句です。句会場からお出になるときに私の肩をポンと叩いていかれたことも強く印象に残っています。


 とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。


  遅ざくら狸のすべる滑り台        房子

  冬の雨茶房は対の灯を吊し

  忌を修す記憶の父のセルの肩

  少年の二礼二拍手竹の春

    兄、奥野久之

  春の霜鼻梁を高く逝きにけり

  逢へぬ夜の風鈴手もて鳴らしけり

  黒髪の失せ綿虫はもう憑かず

  たまらはず入る白日の真葛原

  低声を賤しむしだれざくらかな

  好転を信じラムネの玉ならす

  開き見るてのひら白し式部の実

  わが死後も永らふ金魚ならば飼ふ

  篠の子に川霧厚くなりにけり

  体温計ひやりと波郷忌も日暮

  鏡掛めくりて去りぬ雪女

  林立の檣頭無韻寒昴

  身を過ぎる影裸木の影ならず

  老いるまじ朝顔の蔓伸び放題


 津高房子(つたか ふさこ) 1934年3月3日~2024年6月30日、享年90。兵庫県三田市生まれ。



      撮影・芽夢野うのき「別れを告げない金木犀ほろり」↑

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