中嶋鬼谷「讃 井上伝蔵/草莽(そうもう)の志士(しし)として立つ北風(きた)の中」(『井上伝蔵の俳句』より)・・
中嶋鬼谷編著『秩父事件 農民軍会計長 井上伝蔵の俳句』(朔出版)。序には、「金子兜太先生からのお便り」とある。その一節から、帯文には、
「これは研究であるとともに、一篇のドラマである」―—金子兜太
秩父事件から140年。井上伝蔵とその俳句を丹念に辿った
34年の探求がここに完結する!
とある。第一章「井上家の俳人たちとその作品」の冒頭に、
一、井上家伝来俳諧の巻物
一八八四年(明治十七)の秩父事件の指導者のひとりであった井上伝蔵(いのうえでんぞう)は、翌年欠席裁判で死刑を宣告され、郷里の知人斎藤新左衛門の土蔵に匿われたのち、北海道へ「国内亡命」(井出孫六氏の言葉)した。
郷里秩父の家にあった書籍や書画、俳諧の懐紙、色紙、短冊類hさそのほとんどが焼却されたといわれるが、処分を免れたものに俳諧の巻物一巻があった。(中略)
◆六代目伝蔵 逸井の俳句
病む母と居るも楽しき年忘れ 逸井
〈年忘 季・冬〉
逸井(いつせい)は六代井上伝蔵(治作、一八五四~一九一八、享年六十四)の秩父時代の俳号。北海道時代は伊藤柳蛙(りゅうあ)と号した。「病む母」は伝蔵の母そで(俳号・楚亭(そてい))である。 (中略)
◆伝蔵の短歌
濁(にご)りなき御代(みよ)に者阿(はあ)れど今年(ことし)より八年之後(やとせののち)はいとゞ寿(す)むべし
この歌は伝蔵の思想を知る上で極めて貴重な資料である。作られたのは、一八八一年(明治十四)十月十二日に発せられた「明治二十三年国会開設の勅諭」をもとに、その八年前すなわち明治十五年に相違ない。
自由民権運動は国会開設運動を軸に展開された。明治十年代にあって、伝蔵が「八年後」に期待したものは「国会開設」をおいて他にない。(中略)
歌の大意はこうなる。
〈世間では「濁りなき御代」としきりに称えているが、だいぶ濁っているではないか、それより、八年の後に国会が開設され民意が国会に反映されるようになれば、もっともっと澄んだ世の中になる。きっとそうなる。〉(中略)
この歌は風布(ふっぷ)村の指導者大野福次郎にわたされたもので、福次郎は自由党勧誘の冊子の表紙裏にこの歌を貼り夜を徹して奮闘した。
天朝に敵対するから加勢せよ
と、村の仲間たちに呼びかけたのは大野福次郎など風布村のリーダーたちである。(中略)
「尚古社」に参加した伊藤房次郎こと井上伝蔵は「柳蛙(りゅうあ)」と号した。(中略)
四、石狩のコスモポリタニズム
二〇二四年(令和六)は秩父事件一四〇周年、井上伝蔵生誕一七〇年に当たる。
私が井上伝蔵とその俳句を追い求めはじめたのは一九九〇年(平成二)からで。それから十年後の二〇〇〇年(平成十二)に、それまでの探索の内容を『井上伝蔵―—秩父事件と俳句』(邑書林)として刊行した。その後、秩父事件一二〇周年の年に『井上伝蔵とその時代』(埼玉新聞社)をまとめた。今回の『井上伝蔵の俳句』で伝蔵とその俳句探索の旅も三十四年になる。
井上伝蔵が北海道で所属した「尚古社」は、一八五六年(安政三)から続く旧派俳諧が中心の俳諧結社であった。
とあった。興味を持たれた方は、直接、本書に当たられたい。愚生が、興味をもった最初は、『井上伝蔵―—秩父事件と俳句』(邑書林)であったが、その時の著者名は「中嶋幸三」(俳号・鬼谷)だった。その以前に井出孫六の秩父困民党関係の本を読んでいたからだ。そしてまた、中嶋鬼谷の祖父・中嶋太治郎(秩父事件の中島多次郎)は秩父事件に連座している。は、ともあれ、以下に伝蔵(逸井・柳蛙・伊藤房次郎)の句歌を本書より上げておこう。
訃のしらせ我家皆(わがやみな)ゐて炉辺寒し 逸井
友立(ともたち)ていとゞ淋しや雪の暮 柳蛙
俤(おもかげ)の眼(め)にちらつくやたま祭(まつり)
都都逸
名(な)さへお福(ふく)お多福娘(たふくむすめ)めたれが仕禍(しわざ)の福(ふく)れ腹(ばら)
水に浮くちりも花なり吉野山
明け空を見よとて鳴かん初がらす
白菊も野菊も萩も枯れはててひとりやさしき友も逝きたり 伊藤房次郎
中嶋鬼谷(なかじま・きこく) 1939年、埼玉県秩父郡生まれ。
撮影・芽夢野うのき「小説家だったので貴女秋綺麗」↑
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