武馬久仁裕「玉門関月は俄かに欠けて出る」(『俳句手帳/青の都』より)・・

 


  武馬久仁裕/俳句手帳『青の都』(黎明書房・税込み660円)、挿画も著者。簡単に言うと、俳句手帳の体裁をとった、武馬久仁裕の句集である(他の版元の俳句手帳と違うのは、他の俳人の句は無く、武馬久仁裕の句のみがある)。巻末には「二十四節気一覧」「七十二侯一覧」が付いている。本手帳の題名に因む句は、


  風と行く青の都の女たち       久仁裕


であろう。ともあれ、以下に、本手帳より、いくつかの句を挙げておきたい。


  妄執のブーゲンビリアプルメリア

  リスボンの出口入口赤い花

  fadoの夜やがて真紅の話する

  マスクして玉虫色を生きている

  いるはずのない人がいる春の駅

  矢車草揺れ寸秒の狂い出す


 武馬久仁裕(ぶま・くにひろ) 1948年、愛知県生まれ。



閑話休題・・石井八十太「さがしもとむ兄には逢わず南海の空に散りたる哲三あわれ」(『戦場の人事係/玉砕を許されなかったある兵士の「戦い」』より)・・


 七尾和晃著『戦場の人事係/玉砕を許されなかったある「兵士の戦い」』(草思社)、その「はにめに」には、


 第二次世界大戦中の沖縄戦史において、石井耕一(いしいこういち)は無名の人物である。

 玉砕した沖縄本島南部の戦線にあって、自身が所属した中隊における下士官一八人のうち、ただ一人の生還者であることは知られていない。

 日本軍の司令部が置かれら摩文仁(まぶに)を擁する破壊し尽くされた南部にあって、戦後、洞窟(ガマ)に隠していた人事記録や戦時中の記録を本土に持ち帰ることに成功した、ただ一人の人物であることも知られていない。(中略)

 のちに鉄の暴風と呼ばれることになる、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、人事記録や戦時記録を守る抜き、奇跡的な生還を果たしたのが准尉(軍曹)、石井耕一である。

 しかし、石井の新たな任務は故郷・新潟に戻ってきた復員後に始まることとなった。

 全滅した中隊の遺族らに、戦友の「最後の瞬間」を伝える、終わりのない旅路が始まったのだ。(中略)

 石井は仲間の死を伝えるために生き抜いた「戦場の人事係」であった。


 とあった。著者・七尾和晃は、本書の結びに、


 玉砕の沖縄戦で戦った、野戦高射砲第八十大隊第三中隊。

一九四五年六月、中隊長・山田兼成が残した言葉は、戦場の人事係、石井純一の人生を経て、今に伝わり続けていく。

 「生きて伝えよ」

 私は二〇二四年三月二一日、かつて石井が訪れた山田の実家を訪れた。その日は季節外れの寒波が襲い、大雪となった。

 終戦の年も大雪がふった。だが、山田は再び故郷の雪を見ることなく、二七年の命は散った。石井がかつて吊り橋を渡り、山田の自宅を振り返ると、そこに美しい雪景色が広がっていた。

 山田や石井が歩んだときと、同じ風景が見えたような気がした。


 と記している。一読あれ!


 七尾和晃(ななお・かずあき) 1974年、ニューヨーク生まれ。



        撮影・鈴木純一「乾いたり濡れたり今朝の鼻面は」↑

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