竹下しづの女「金色の尾を見られつゝ穴惑ふ」(『竹下しづの女の百句』より)・・
坂本宮尾『竹下しづの女の百句』(ふらんす堂)、巻尾の「俳句に理性を」には、
(前略)しづの女の句はしばしば難しい漢字や構文を用いて堅苦しく、また、複雑な内容を一句に盛り込もうとして定型をはみだして破調となる。師高浜虚子が「詰屈聱牙(きっくつごうが)」の句と評したように、一見して難解で取っつきにくい印象を与える。しかしじっくり味わえば、その句は誰も詠んだことがないような新鮮さと力強さで読み手を魅了する。さらに作品の背後に、波瀾の大正から戦中、戦後社会を、颯爽と独立独行の姿勢を貫いて生きたあっぱれな女性が浮かびあがってくる。(中略)
大正九年四月に「天の川」と「ホトトギス」に投句を始めると、早くも八月に両方の雑詠欄の初巻頭を飾った。冒頭で触れた〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)〉は、女性に慈母、賢母であることが求められた時代に、家事や育児で疲れ果てた母親の脳裡を過った本音を、率直に吐露したところに新しさがある。このような大胆な句を発表した女性はいなかったのである。(中略)
同じ頃に九州で活躍した杉田久女は、しづの女と生き方も句風も大きく異なるが、やはり家庭と創作活動の両立という課題に直面し、作句を中断している。大正から昭和初期の男尊女卑の社会では、特別に恵まれた環境にある場合を除いて、家事の担い手である主婦が俳句に専念することには大きな困難があったことが窺われる。しかし、この二人は時代が女性に課した制約をやがて乗り越えて、女性俳句の先駆者となった。まさに驚嘆すべき才能と意欲である。
とあった。掲載の句々に見事な鑑賞が付されているが、ここでは一例を挙げて、あとは句のみを掲げておこう。
春雪の白きよりなほ潔かりし 「雪折れ笹」福岡日日新聞
昭和八年四月一日
伴蔵は入浴中に脳溢血で倒れて、四十八歳の若さで亡くなった。第一次大戦を契機に産業構想が農業から工業へと変化してゆくなかで、農学校の校長の職務は心労が多く、激務であった。しづの女は「一片の私心なく、一抹の陰影をもとめぬ八荒晴明」であったと夫を偲び、葬儀の夜の春雪と引き比べて彼の清廉潔白な人格を讃えている。春の雪だけに、ことさらに純白の輝きが感じられ、深い敬愛の情のこもった悼句となった。
一家は校長官舎を出て、借家に移ることになる。
霧いたみせる神の扉に合掌す しづの女
涼しさや帯も単衣も貰ひもの
節穴の日が風邪の子の頬にありて
書庫瞑く春尽日の書あそぶ
緑陰や矢を獲ては鳴る白き的
汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍す
たゞならぬ世に待たれ居て卒業す
留守の子に青いばつたは碧く蜚ぶ
苺ジャム男子はこれを食ふ可らず
たんぽぽと女の智慧と金色なり
梅白しかつしかつしと誰か咳く
吾が米を警吏が量る警吏へ雪
淑子大学卒業
鳥雲に伏屋の女人哲学者
高く高く高く高くと鵙が吾が
欲りて世になきもの欲れと青葉木菟
坂本宮尾(さかもと・みやお) 1945年、旧満州、大連生まれ。
撮影・芽夢野うのき「萩の花ゆく道あらばゆく空気」↑
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