岡田史乃「蝉時雨私のために泣かないで」(『岡田史乃の百句』より)・・
辻村麻乃『岡田史乃の百句』(ふらんす堂)、帯文は高橋睦郎、
岡田史乃は華やかな存在感のある女(ひと)だった。その華やかさを満たしていたのが大きな悲しみであったことがくきやかに見えてくる、娘辻村麻乃さんの百句読解。生きることは悲しく、そのゆえにこそ美しい、と改めて教えられる史乃さんの句であり、麻乃さんの読みだ。
とある。また、著者「あとがき」には、
(前略)晩年の母は体調が悪く、俳句に関する様々な細かい作業を私に一任していた。当時、私も子育てと仕事に追われて充分に役に立てているとは思えない。それでも、句集をふらんす堂から出す約束をしているとずっと言っていたので当時力及ばずながら連絡はとっていた。(中略)
そのため、母の遺志がまだふらんす堂にあるのではないかと考えて『岡田史乃の百句』を出版するに至ったのである。
とあった。二例のみだが、鑑賞部分を抽いておこう。
かなしみの芯とり出して浮いてこい 『浮いてこい』
この句は岡田史乃の代表句といっても過言ではない。『浮いてこい』は、まず標題からしても口語がところどころ使われている。横浜で笹尾家の長女として何不自由なく育てられた史乃は、自宅まで頻繁に通って求婚をした隆彦の熱意に根負けして結婚したという。それが、「砂のような男」隆彦の情熱が冷めて、酒に酔っては帰らない。最終的に虎の門病院分院で治療をしていた隆彦に当時の周りの人間が動いて離婚届を書かされる。のちに二人は後悔して再婚しようとするが、日にちが満たないため税金対策と思われ婚姻届けは受理されない。そんな色々のことがあった。体面的には女一人で私を育てていたため、その悲しみは「芯」となって終生残ってしまったのだ。季語である「浮いてこい」に動詞としての意味ももたせた句となっている。
昨日会ひ今日も会ひたし娘のショール 『ピカソの壺』
この句は娘の私が一番驚いた。赤坂から我が家のある朝霞のケア施設に入ってもらってからは「近いんだから毎日来い」と言われ、行くと「帰れ」という不機嫌な日(のちに癌が二箇所に転移)もあった。会いたいのは娘たちの方で、私とは思わなかったからだ。あとで本人に聞くと「麻乃のことよ」と。読むと今でも涙を禁じ得ない。
以下に句のみなるが、いくつかを挙げておこう。
花人のうしろへまはる影法師 史乃
十五夜に一旦帰京いたします
謝つてよと泣く女童に濃山吹
煮崩れし魚の半眼無月なり
舟一隻春の焚火として燃やす
風船の影を持たずに売られけり
花に寝て花にたづねたきことのあり
前略と書いてより先囀れり
しんがりのたうたうこずに秋の山
ぽつぺんをわが名のごとく吹きにけり
びつしりと桜の空の桜かな
竹婦人好みし男もうゐない
片づかぬ秋の形でありにけり
辻村麻乃(つじむら・まの) 1964年、東京都生まれ。
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