大野林火「萩明り師のふところにゐるごとし」(『大野林火論ー抒情とヒューマニズム』より)・・


 村上喜代子著『大野林火論―—抒情とヒューマニズム』(コールサック社)、その帯の惹句には、


 詩を愛した少年時代から俳句に導かれ臼田亞浪に師事。

 亜浪に「思うように句作せよ」と励まされ、高浜虚子を学び、

 広く俳壇を知り見識を養い、俳壇のリーダーとなった林火。

 家庭の不幸に見舞われ、俳句によって救われたとの思いから

 病者や不運な人を俳句によって救おうとしたヒューマニストでもあった。


第一章「大野林火評伝」の結び「14.辞世三句」には、


(前略)先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日

    残る露残る露西へいざなへり

    萩明り師のふところにゐるごとし

 この辞世三句を松崎鉄之介に書きとらせ、その後は昏睡状態になり、昭和五十七年八月二十一日午前四時半、ついに帰らぬ人となったのである。臼田亞浪宅より移植した萩。この萩を病床から眺め、師亞浪との思い出を頭に描いていたのであろう。三句ともに亞浪に繋がる句である。高浜虚子を学び、師風としては亞浪を継がなかったが、辞世三句共々亞浪を慕う心に胸を打たれる。(中略)

 九月二日、俳句文学館において俳人協会と濱俳句会の合同葬が執り行われた。暑い日だったという。戒名は「俳宗院師風林火居士」勲三等瑞宝章が追贈された。(中略)生涯を通じて、「初心」を忘れなかった人であった。病むもの苦しむ者への捨て身の愛、人間性、俳句への情熱、進取の心意気、俳壇のリードする力、包容力。林火の生きざまに学ぶことは多い。「石楠」を主宰した臼田亞浪の大きな懐に抱かれつつ、虚子を研究、虚子を学んだことでミイラ取りがミイラになって俳句の本道を知った林火。その幅広い視野と中庸の姿勢から俳壇のリーダーともなった。この功績はもっと検証され、顕彰されて当然かと思う。


 とあった。愚生は、大野林火の弟子・松崎鉄之介の自宅に一度だけ伺ったことがある。その時、「化石が句を出し続ける間は、『濱』の発行はやめない」と仰っていたのを思い出す。その約束を果たされたのち「濱」を終刊にされた。その鉄之介もまた、師の林火の命日の翌日にあたる2014年8月22日に死去した。享年85。ともあれ、本書中より、林火のいくつかの句を挙げておこう。


  燈籠にしばらくのこるひかな        林火

  霜夜来し髪のしめりの愛しけれ

  焼跡にかりがねの空懸かりけり

  ねむりても旅の花火の胸にひらく

  癩踊るみな来世を見る眼して

  期すものに老後も初心水澄めり

  あはあはと吹けば片寄る葛湯かな

  この世よりあの世思ほゆ手毬唄

   化石句集『端坐』を選みて、化石へ

  結跏趺坐雪積るとも積るとも

  

 村上喜代子(むらかみ・きよこ) 1943年、山口県下関市生まれ。 



★閑話休題・・大野林火「露の世のまくろき河にぶつかりぬ」(『大野林火と角川源義』より)・・


 林火つながりで、加藤哲也『大野林火と角川源義』(日本プリメックス)、その「はじめに」に、


 本書はは、俳人 大野林火の全人生航路および俳句、さらにまた角川源義の全人生航路および俳句について、解説的に説明し、二人のほぼ全俳句とその活動について解説したものである。(中略)

 源義は、角川書店を立ち上げて、「出版界の風雲児」とも呼ばれたのだから、俳句だけをやっていたのでは無い。一方で、林火は途中から仕事から俳句一本へ移っているから、少しそこは異なるが、林火も源義が同じく立ち上げた「俳句」の編集を一時やっているから、十三歳もの年齢差に関わらず、二人には関りが確かにあった。そのようなことがあるから、二人の俳句人生を、そしてその関りを、年譜に従って見ていきたいと思う。


 とあった。


  月の橋川の港に懸りけり      林火

  花あれば西行の日とおもふべし   源義 


 加藤哲也(かとう・てつや) 1958年、愛知県岡崎市生まれ。



      撮影・中西ひろ美「絵の猫がまたも年寄る晩夏かな」↑

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