相馬遷子「わが山河まだ見尽さず花辛夷」(『相馬遷子の百句』より)・・


  仲寒蟬『相馬遷子の百句』(ふらんす堂)、「一人の医師として」の副題がある。巻尾の「相馬遷子の医師俳句・闘病俳句」の中に、


   一、はじめに

 相馬遷子と言えば「馬酔木」の高原派としか知らなかった。その遷子と同じ佐久に住むこととなり、同じ地域で医師として働くようになって偶然その俳句に興味を持ち始めた。

 きっかけは筑紫磐井氏からインターネット上のブログ「-俳句空間ー豈weekly」の「選子を読む」に参加しないかと誘われたことであった。この企画は二〇〇九年三月から二〇一〇年七月まで中西夕紀、原雅子、深谷義紀、筑紫磐井と著者の五人(当初は窪田英治も加わっていた)による研究であり、その成果は二〇一一年に『相馬遷子―—佐久の星』(邑書林)という書物に纏められた。(中略)

 ここで医師俳句の定義をしておきたい。狭義の医師俳句は「往診や診療風景など医師としての業務を詠んだ俳句」とする。また広義の医師俳句を「病気・病人や人の死を医師の眼を通して詠んだ俳句」と定義する。


 とあった。一例として本書中の一句鑑賞を引用する。


   忽ちに雑言飛ぶや冷奴    『草枕』

                 (昭和一八年作)

 「送迎桂郎四句」(『山国』では「迎送桂郎二句」)と前書がある。桂郎は石川桂郎、石田波郷に師事し「鶴」「壺」の同人であった。遷子と桂郎(一歳年下)では性格も身の上も全く異なる筈だが意外と気が合ったようである。

 「壺」にも所属していた桂郎が函館の斎藤玄らを訪ねて来たのだ。雑言は罵詈雑言というように様々な悪口、討論などの品のよいものとは言えず、酒も入ってかなり声高な暴言や批評の応酬があったか。馬酔木の貴公子と呼ばれた遷子はどんな顔をしていたのだろう。冷奴はこの場をやや冷静に眺めている遷子の象徴なのかもしれない。


 とある。ともあれ、本書中より、句のみになるが、いくつかを挙げておこう。


  風邪の身を夜の往診に引きおこす        遷子

  年の暮未払患者また病めり

  口中もまた貧農夫春の風邪

  母病めり祭の中に若き母

  隙間風殺さぬのみの老婆あり

  ストーヴや革命を怖れ保守を憎み

  病者とわれ悩みを異にして暑し

  酷寒に死して吹雪に葬らる

  甲斐信濃つらなる天の花野にて

  夏痩にあらざる痩をかなしみぬ

  あきらめし命なほ惜し冬茜

  冬麗の微塵となりて去らんとす


 仲寒蟬(なか・かんせん) 1957年、大阪市生まれ。



     撮影・中西ひろ美「花終えて子を育ておるミツガシワ」↑

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