有馬朗人「草餅を焼く天平の色に焼く」(『有馬朗人全句集』より)・・


 『有馬朗人全句集』(角川書店)、帯の惹句に、


物理学者、教育者として数多くの偉業を成し遂げ、

2020年に90年の天寿を全うした俳人・有馬朗人

その豊かなる俳句世界の全貌!

既刊10句集に拾遺、補遺、『黙示』以後を加えた全5369句を収録

解題/年譜/あとがき/初句索引/季語索引


 とあり、栞文には、堀切実「伝統を継ぎ国際化をめざす」、高橋睦郎「八十五歳の坂」、高野ムツオ「ロマンの俳人 有馬朗人」、星野高士「直会殿」、小林恭二「初めてお会いした頃」、神野紗希「ぶらんこで語る永遠」。

 各句集の解題に、日原傳・佐怒賀正美・対馬康子・福永法弘・梶俱認・仙田洋子・横井理恵・明隅礼子・久野雅樹・坂本宮尾・岸本尚毅。そして、西村我尼吾「有馬朗人という飛跡」。その中に、


(前略)先生は令和元年「天為」12月号で、「日本古代の歌謡片歌について」を論じはじめ翌年の4月号まで連載された。そこでの問題意識はそもそも俳諧連歌の存在をアプリオリのものとして、そこからの独立が芭蕉の発句改革であり、時代を経て正岡子規以降の短詩型文学としての俳句の成立につながるという通説に対して、根源追究という、ことばの根本に立ち返り考えようとする、いわば理論物理学者としての怜悧な問題意識に基づくものである。(中略)俳諧連歌から句が独立するのではなく、原型短詩というべき句から俳諧連歌が発達してきたと考えるのである。先生は、その問題意識の上に立ち古代における独立した短詩型は存在するのかということを探ろうとしたのである。(中略)そして古事記、日本書紀にまでたどり着いた。そして古事記が示した片歌という一行詩にその淵源を見ようとした。日本武尊や木綿垂の神楽歌に575で季語。季題も含んだ作品を俳句の原点の片歌として認識した。(中略)有馬先生の原型短詩説はこのような日本独自の対属の発展の上に俳諧連歌が形成されているという考え方の道筋をつけたものと考えられる。


 と記している。愚生は、生前のそれも若き日の攝津幸彦から、当時のことになるが、「朗人(ロージン)の句はオモロイで・・」と言うのを聞いている。30年ほど前のことになる。その時から。愚生は有馬朗人を意識して見た。そのことを、後に有馬朗人にお会いしたときに伝えたことがある。何かの会に出席する前の有馬氏は、時間前に、いつも散歩をしながら来られていた(健康法の一つだったのではないだろうか)。

 ともあれ、本書より、生前最後の句集『黙示』以後の句業、「『黙示』以後「天為」掲載作品、総合誌等掲載作品」(2016ー2021年)から、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。


  帰らざる水を送りて山法師           朗人

  ここに我ありと宙飛ぶ猿廻し

    兜太さんを哀悼す

  狼を皆連れ立たれ給ひしや

  初蝶や白亜紀の白輝かす

  朝に親蝦蟇夕べに子蝦蟇と会ひし日よ

  未だ余生ならざりくぐる大茅の輪

  父焼きし森より立てり冬の鵙

  天国に花満さんと百日紅

  残り鴨飛ぶこと思ひ出しゐたり

  人恋ひて鹿が顔出す島躑躅

  鶴は千年待てど萬年鳴かぬ亀

    祝『俳句』六十五周年

    「登山する健脚なれど心せよ 虚子」に和す

  心して登れる高き山幾つ

  シェヘラザードの声に春眠より覚めず

  天命を糸にまかせて子蜘蛛飛ぶ


 有馬朗人(ありま・あきと) 1930年9月13日~2020年12月6日、大阪市生まれ。



      撮影・中西ひろ美「小さくてしかも一日咲けばよし」↑

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